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カルキのディクシャ  WHO IS THAT?
インド聖者カルキバガヴァンとワンネスムーヴメント。 その知られざる実態に迫る。 ワンネス劇場の舞台裏で何が起こっていたのか!? その他、悟り系の情報を紹介。玉石混交のスピリチュアル、玉にみせかけた石にはご用心。
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「誰がかまうもんか?!」
(ラメッシバルセカールのユニークな教え)
ブレインバルドー 編
  高木悠鼓 訳


最も意地悪な人

フィリップ: 最近のアドヴァイタ(非二元論)の先生に何人か会ってから、私は、あなたがものごとを説明するやり方に本当に感謝しています。

あなたはすべての先生の中で、いちばん意地悪です。
あなたは最高の正直さでもって、ただちにその場でものごとを正す方です。

私は、みんながそのことに非常に感謝していると思います。


ラメッシ: あなたは、私がニンジンを差し出さないので、多くの先生の中でいちばん意地悪と言うわけですね。

私が言っているのは、得るべきニンジンなんてない、ってことです。

多くの人たちは、何らかのニンジンを与えてもらいたがります。

いまだにニンジンが欲しい人たちは、ニンジンを得ることができる場所へ行き、ニンジンを食べた後で、自分がまだ不満足であることに気づき、ここへやってきます。


明晰さ、あるいは混乱

プレム: ラメッシ、私もまたあなたの話を聴くのがとても好きです。
どういうわけか、あなたはものごとを表現するユニークな明晰さを備えておいでです。


ラメッシ: あなたはユニークって言いましたか?どのようにユニークなのでしょう?
真実はただ1つです。


プレム: 真実は1つであっても、あらゆる表現はユニークであるように見えます。
ところが、どういうわけか結果は同じで・・・・・


ラメッシ: 結果は、混乱か明晰さのどちらかです。

あらゆる先生がユニークであり、明晰さか混乱かのどちらかを生み出しています。

ですから、もし教えというものが混乱を生み出すとしたら、それは何故でしょう?

もちろん先生は、混乱させようとは思っていませんでした。


プレム: たぶんそれは、先生自身が混乱しているからでしょう、だから・・・・・


ラメッシ: では、どうして先生たちは混乱しているのでしょうか?

なぜなら、それが神の意思だからです。


プレム: もちろん、そうですね!


ラメッシ: なぜ先生たちは混乱しているのか?

それは、彼らが他の人たちを混乱させるようになっていたからです。

それでは、なぜこうしたことが起こるのでしょうか?

なぜなら、それが神の意思だからです。

なぜそれが神の意思だかわかりますか?

『バガヴァッド・ギーター』では次のように言っています。

「何千人もの人の中で、探求者はたった一人しかいない。そして、一生懸命に求めているその探求者たちの中で、一人だけが私を本質において知る」。

ですから、何千人もの探求者は混乱させられる必要があるのです。

混乱した先生たちがいなければ、どうして彼らを混乱させることができるでしょう?

それさえ神の意思である -- これが、私の言わんとしていることです。


プラティマ: あるいは、先生は混乱していないかもしれませんが、でも弟子が、準備ができていないということもあるでしょう。


ラメッシ: もちろんです。それもまた神の意思です。


プラティマ: そうすると私たちは、かわいそうな先生たちを責めることも、まったくできないわけですね。


ラメッシ: あなたは決して誰も責めることはできません。

だから、『バガヴァッド・ギーター』では、また次のようにも言っているのです。

「あなたはどんな罪も犯すこともできないし、称賛に値する行為をおこなうこともできない。あなたの原初の理解は、無知によって曇らされている。そのせいで、あなたはものごとを功罪でしか見ないのだ」。

これは主クリシュナが 『ギーター』 の冒頭で言っていることで、終わりは次のようになっています。

「私に明け渡しなさい。そうすれば、自分が犯してしまったと考えざるをえないすべての罪から、おまえを救ってやろう」。

自分は罪を犯さざるをえない、と思うこともまた、神の意思なのです。

ですから、もしあなたが自分は罪を犯したと思うのであれば、「私に明け渡せば」、私があなたをすべての罪から解放してあげましょう。だから明け渡しなさい。

でも、ここでのジョークとは、明け渡すことそのものも、あなたがコントロールできることではない、ということです。

なぜなら、「私は明け渡す」と言う個人がいるかぎり、明け渡す人がいるのであり、それは個人のエゴだからです。

- 後略 -


「誰も」悟りを得ることはできない

ラメッシ: 「誰も悟りを得ることはできない」という言葉の意義は何でしょうか?

それは何を意味しているのでしょうか?これがまさに教えの根本です。

誰か、いわゆるマスターが悟りを得るために、あるいは悟りを達成するために、人に何かをおこなうように求めるとしたら、それはばかげています。

私の考えでは、このシンプルな言葉の核心は、悟りとは、悟りを 「欲しがる」 「人」 が消滅するということです。

もし悟ったなら--そしてそれは神の意思があるときにのみ起こるものですが--それは、その前に悟りを欲しがっていた 「人」 が消滅したわけです。

ですから、「誰も」 悟りを達成することはできないし、したがって、誰も悟りを楽しむことなどできないのです。


自己改善

個々の意思決定と個人的な努力というこの問題は、非常に微妙であり、理解することが困難です。

- 中略 -

個々の人間とその人のいわゆる努力が絶対的に幻想であることは、悟りの非常にすぐそばにいる人にはすぐに理解されることですが、一方で、段階のもっと低いところにいる人は、努力、決意、集中といった発想を簡単に受け入れるのです。

・・・ある段階では自分の個人的な努力に頼っているタイプの人間が、後の段階では、なされているそういった努力は、実に現象世界全体の努力であって、どんな幻想の個々の行為者の努力によるものではないと気づくようになるかもしれません。

ですから、努力を、何かを達成する目的でおこなう自分の個人的な努力と考えている間は、人は神の全能性を拒否しているのです。

人が神から何かを欲すかぎり、彼は「御心のままに」という現実を拒否しています。

神に対する真実の愛とは、彼への明け渡しを意味し、それは何も望まず、救いさえ望まないことです。

◇ ◇ ◇

自発的で自然な行為の中には、意図や計画のほんのわずかな痕跡さえありえないことは、あまり理解されていません。

さらに言えば自発性や自然であることは、努力することや、また努力しないように努力することによって「達成」することはできません。

これもまた不可能な袋小路のように思えますが、実はそうではありません。

努力(あるいは努力しない努力)は欲望、つまり意思にもとずいていて、それ自身、「自分という観念」、つまりエゴの1つの側面です。

見かけの袋小路をそのように見るのは分裂した心ですが、一方、自発性は分裂した心の欠如と同義語です。

◇ ◇ ◇

すべての二元性は幻想であり、すべての行為は瞬間的で、そして、すべての意思は幻想です。

いったんこれが理解されれば、人は自発的であろうとするのをやめます。 

意思が幻想であるとわかれば、すべての行為は自発的になります。


同じように、すでにそこにあるものを見るために、規律、修行、手だてといった、あるいは何かの決まり文句や思考、言葉の断言(アファメーション)を繰り返すといったような努力は、まったく必要ではないということも、明確に理解されなければなりません。

ある中国の哲学者は、「すべてはタオである」ので、タオを理解するすべての努力は、「蛇足」と見なしています。ニサルガダッタ・マハラジも、そういった努力を同じような言葉で言及していたことに気づくのは、興味深いことです。

◇ ◇ ◇

行為の分析--唯一のサーダナ(修行)

- 前略 -

マーク: あなたがサーダナについて話していることから思うに、あなたが推薦する唯一のサーダナは、行為者についての分析で、私はそのことをエゴの締めつけを弱めることと関連づけています。


ラメッシ: エゴが弱まる--そのとおりです。

私がたいていのサーダナについて思うのはただ、常に意識しているエゴがあるということです。

--「私」 はこのサーダナをやっている、「私」 はこの努力をしている、「私」 は報酬を得なければならないというように。

ですから、二十年のサーダナの終わりに、正直な探求者は、「私は二十年間瞑想をやったが、何も得るものはなかった。このサーダナは役に立たない。私は別のサーダナを求めなければならない。私は別のアシュラムに行かなければならない。私は別の師(グル)のもとへ行かなければならない」と言うのです。

私が言いたいのは、たいていのサーダナは、個人的行為者、探求者、何かを得る期待をもって何かをしているエゴにもとづいているということです。

それゆえ、瞑想することが求められるわけです。確かにそうですね。

でも、瞑想から何かを得ることを期待している 「瞑想者」 がいるかぎり、私の考えではその瞑想は役に立ちません。

- 後略 -


「理解のトンボ返り」、そして巻き込まれる

クリスチャン: でも、至福の経験、自由の感覚に伴う至福があります。個人的行為者から解放された感覚があります。以前は束縛があった、それから突然、個人的行為者がいないという理解があり、そして、至福をともなう自由の感覚がわき起こったのです。


ラメッシ: ほら、「至福」 がまさに問題なのです。

自由の感覚は至福感でしょうか、それとも平和でしょうか?

私は「平和」 という言葉を好みます。そして、もし「平和」 という言葉を使えば、私はたくさんの探求者を追い払うことになります

--「もし得られるのが 『平和』 だとしたら、私は関心がない。私は至福が欲しい」。

そのように、平和という言葉で、たくさんの探求者を追い払うことになります。

だから、他の場所では、「平和」 という言葉はあまり使われません。

「至福」 という言葉がまさに問題です!

「私のアシュラムにいらっしゃい、あなたに至福を差し上げよう」 というふうにして、何億ドルものお金が儲かるので、アシュラムは5億ドルの財産をもっていたり、3億ドルの財産を持っていたりします。


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精神世界(スピリチュアル)には数多くのトラップが存在しています。私も懲りずに何度もひっかかりました。安易に鵜呑みにせず、自分自身で調べる、考える、見極めることが大切なんだと思います。経験してみないことにはわからないこともありますが、情報を知ることで罠を回避できることも十分にあると考えられます。
国内だけでは情報が限られるので海外にも目を向けています。
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