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カルキのディクシャ  WHO IS THAT?
インド聖者カルキバガヴァンとワンネスムーヴメント。 その知られざる実態に迫る。 ワンネス劇場の舞台裏で何が起こっていたのか!? その他、悟り系の情報を紹介。玉石混交のスピリチュアル、玉にみせかけた石にはご用心。
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Q:私は、クリシュナを神童の如く描写したムーヴメントの歴史を読んだことがあります。

彼は、バガヴァンの大規模な悟り現象の場となった学校において、最初の “ 神秘経験 ” を得た人であった。

あなたは、それについて何かご意見はありますか?

フレディー:新しいバージョンをお伝えしましょう。

私がムーヴメントにいた最初の数年、バガヴァンは少なくとも9回、彼の名前を変更しました。

私が知っている9つの異なる名前は、以下の通りです:
パラマチャリヤ、バガヴァン、イーシュワラムルティ、イーシュワラ・バガヴァン、ムクテシュワラ・バガヴァン、シュリ・シュリ・バガヴァン、カルキ・バガヴァン、カルキ、シュリ・バガヴァン。

彼は私に、天の父を意味するロシア語での彼の名前を見出すようにも命じました。

そして、私達は彼を1年以上、ツェバオス(或いは、創造主ツェバオス)と呼びました。

スェーデンでそのようにするなら大勢から私達のムーヴメントを新興宗教扱いされるので、敢えてそうしませんでした;
一旦私達がそのような評判を得たならば、それは除去が困難なので、新興宗教のレッテルを貼られないように、バガヴァンは私に非常に慎重であるよう指示しました。

彼は、定期的に教えとアプローチを変えました。

しばらくの間、彼の教えは、悔い改め、原罪、告解を伴ったキリスト教に酷似していました。

突然それは変更されて、コースは心理的なトラウマ浄化のワークショップのようでした。

1992年、ジーヴァシュラムにおける “ 心理学 ” コース(1週間の合宿)で、バガヴァンはあらゆる心理学を取り除き、今は彼に帰依することに集中するべきだと朝に決めました。

私達は合宿の途中で全てのコースを変更しなければならず、そのような突然の過激な変更に参加者はかなりのショックを受けました。

バガヴァンの新たなメッセージは以下の通りでした:
「より多くの心理学とブロックの洗浄は、より多くの浅薄な結果を生むだろう。180度、方向転換する。」

私が出席した(1991年2月)最初のコース(合宿)では、大部分が長時間の瞑想、ヨガ、“ プラジャパティ意識の注入 ” と呼ばれていたディクシャで構成されていました。

[ プラジャパティは、ブラフマー(創造神)の息子の1人です ]。

数か月後、それはマハヴァキヤ[=生ける神の至高の言葉]が中心となり、バガヴァンが直接語りました。

10年間以上、バガヴァン、パラマチャリヤ、全てのアシスタントは、最初の体験を得た人がヴィジェイ・サガール(学校の敬虔な学生・12才)であるとコースの教えで伝えてきました。

パラマチャリヤとAGがヴィジェイ・サガールについて話った時、彼らはある種の預言者のように彼について描写しました。

今日では、彼らは、まるでヴィジェイ・サガールが存在しなかったように、彼に言及することを避けようとしています。

当然、彼らがヴィジェイ・サガールについて話すことを避ける理由について疑問が起こります・・・

何故バガヴァンはムーヴメント誕生の歴史を根本的に改訂したのか。

2000年に、私が初めて新しいバージョンを聞いたとき、実にショックでした 。

現在は、ヴィジェイ・サガールではなく、クリシュナが最初に神秘体験を得て、それを他の学生達に伝染させていたとされています。

バガヴァンは、ヴィジェイ・サガールが彼や彼のムーヴメントのことを悪く言うと気付いたのでしょうか?

バガヴァンは、その歴史を「矯正」する啓示を得たのでしょうか?

バガヴァンにそうさせた本当の理由はわかりませんが、一夜にして、私がいまだ知らぬムーヴメントの歴史に改訂させました・・・


Q:バガヴァンは、これまでにムーヴメントの名前も変更しましたか?

フレディー:何度も。

1990年、私はかつて彼らが一般大衆を対象に初開催したコースの小冊子を読みました。

アーシュラムは “ ゴッズ・アース ” (神の大地)と呼ばれていました。

そのコースは “ アヌグラハ ” と呼ばれていました。

サンスクリット語でグレースを意味します。

“ ゴッズ・アース ” という名前は新興宗教臭い響きだったので私は好きになれなかったことを覚えています。

私はどうして “ ゴッド・アース ” と命名したのか尋ねました。

バガヴァンは「人類に悟りを授けるつもりだ、誰もがキリストやブッダのようになるだろう。
これで人間は再び純粋になり、世界はもう一度、アダムとイヴの物語で描かれた素朴な姿に立ち返るだろう。」と私に語りました。

バガヴァンは破壊的な現代の文明社会に反対していました。

1992年、ムーヴメントは “ ザ・テンプル・オブ・ゴッド ” (神の神殿)と呼ばれるようになりました。

まもなくすると “ ザ・テンプル・オブ・ザ・ライト ” (光の神殿)に変更されました。

数ヶ月して、“ ザ・テンプル・オブ・シュリ・シュリ・バガヴァン ” (偉大な偉大なバガヴァンの神殿)となりました。

私はこれら全ての様々な名前を辿ることさえできないと思います。

1997年、アーナンダギリがムーヴメントを “ ザ・ファウンデーション・フォー・ワールド・アウェイクニング ”(世界の目覚めの財団)と呼ぶことにしました。

幾らも経たないうちに、おそらく2000年頃でしたが、“ リビング・イン・ジョイ・ファウンデーション ” (生きる歓び財団)と呼ばれました。

それからすぐ “ ゴールデン・エイジ・ファウンデーション ” (黄金時代財団)になりました。

および、バガヴァンは、それが正しいエネルギーを持っているので、あらゆる場所において、その名前でムーヴメントを呼ぶことを私に命じました。

それが黄金時代の到来、地上の楽園を加速化させるであろう、と。

長年、カルキが名前を変え続けたので、帰依者をかなり混乱させました。

それは俗称カルキ・ムーヴメントと呼ばれていました。

自分自身がカルキだと主張するグルがインドに300人以上いて、カルキだと主張することで刑務所に入れられた者がいるということをバガヴァンが知るに至りました。

彼は非常に用心深くなり、カルキと呼ばれて知れ渡らないようにしようとしました。

それは彼に強要され、人々は彼が拒んでも他の名前で呼ぶことを断りました。

カルキの名を持っているために刑務所へ入った人がいることを知るまで、彼は拒んだことはありませんでした。

それが事実です。

私が長年していたように、彼の兄弟のラメッシュでさえ彼をカルキと呼びました。

ラメッシュは、カルキ・バジャンカセット(カルキを賛美する信仰的な音楽)を大量に出版しました。

また、カセットを出版した会社(バガヴァン/彼の息子が所有)は、“カルキ出版社”と呼ばれていました。

私達が献金した信用組合は長い間、“ カルキ・トラスト ” と呼ばれて、それは少なくとも2004年まで活動的でした。

2、3年前、2004年のことだったと思います。

バガヴァンは、ムーヴメントをワンネス大学( “ ワンネス・ユニヴァーシティ ” )と呼ぶことに決めました。

その言葉は、作家カール・ジョアン・コールマン(ワンネスの祝祭の著者)がゴールデンシティーを訪れて、バガヴァンに会った後に思いついたものです。

私は、新興宗教の評判を得ないためにバガヴァンが用心深いことを知っています。

私の理解する限り、それが彼が “ ワンネス・ユニヴァーシティ ” という名前を選んだ理由です。

この名前がどれだけ続くかは時が示すでしょう。


Q:一時期、アーチャリヤ/使徒でもあったバガヴァンの兄弟について何か話してくれませんか?

フレディー:私は彼と個人的にとても親しかったです。

彼はとても優しく、謙虚で気さくな人でした。

彼は神の臨在を感じるために変容したがっていました。

幾つかのコースに参加した後、ラメッシュは、まだアンタリアーミン(内在神との交流)の目覚めを得ていませんでした。

バガヴァンは、彼がいずれにしてもアンタリアーミンを得ることが出来ないかもしれないと彼に伝えました。

バガヴァンは、彼は右脳と左脳の同期に問題がある、とラメッシュに言いました。

私はラメッシュをとても気の毒に思いました。

彼は取り残されたと感じているように見えました。

 [ 備考:1991年、内在神の目覚めを、アンタリアーミンとは言わず、“ マニフェステーション(顕示) ” と呼ばれていました(それ以前は “ バガヴァッド・サットシャタカラ ・アヌバーヴァ ” )。

今日 “ プレゼンス ” と呼ばれるようになるまで(7年間以上)はアンタリアーミンと呼んでいました ]。

アーナンダギリ、私自身、幾人かの人々はパラマチャリアのコースを手伝っていました。

バガヴァンが彼自身でコースを行うことはありませんでした。

私達は、ラーマムルティ(バガヴァンの義理の兄弟)のオフィスビル(チェンナイのアンナ・ナガール地区)でコースを開催していました。

このオフィスビルの上階は “ シュリ・シュリ・バガヴァン寺院 ” となりました。

ラーマムルティはインドで公式コース開催を許可された少数の1人でした。

初期のコースではパラマチャリヤだけが上級コースを開催しました。

グループはより小さなグループに分割されました。

ラメッシュは参加者の1人でした。

彼は、私に対して親近感を抱いていたので、私がガイドするグループにいさせて欲しいと頼みました。

コースの2日目か3日目に、私達は人々の恐れに取り組みました。

私は彼の恐怖を介してラメッシュをガイドしていました。

彼が最大の恐怖に直面した時、突然、彼の身体が震動し始め、床に横たわっている他の参加者の身体にぶつかりながらホールの反対側まで高速で転がっていきました。

私は彼のあとを追いました。

彼が完全に疲れ果てた状態で横たわっている時、私は、彼の頭に手を置いて祈り始めました。

ほとんどすぐに、彼は得ることが出来ないと告げられていたものを得ました。

このため、彼は、この時以降、私のことを“グルジ”(師匠)と呼ぶようになりました。

私達が会った時、彼はしばしばヒンドゥー教徒が伝統で行うようにして、私の足元にひれ伏しました。

彼が神の兄弟だったので、私にとってこれは非常に決まりが悪いものでした。

ラメッシュは、かつてバガヴァンが彼に告げたことを私に打ち明けました:
“ ラメッシュ、君は私を愛する以上にフレディーを愛している。
そうするのを止めなさい。君の霊的成長にとって、それは良くない。” 

「私は、ラメッシュがしたように私を愛して、賞賛する人には滅多に会うことがなかったことを補足しておく必要があります」。

とうとう彼の夢であった神との交流を得た後、ラメッシュはより活発にムーヴメントに加わることを望みました。

彼がアシスタントの1人になれるかどうかバガヴァンに尋ねると、バガヴァンは「はい」と言いました。

見習いとして、ラメッシュは誰かに訓練される必要がありました。

バガヴァンは彼の訓練担当としてアシスタントの誰を希望するかを彼に尋ねました。

そして、ラメッシュは私を選びました。

ラメッシュは最初の訓練生でした。

まもなく私達はチームとして一緒にグループをガイドするようになりました。

私達は一緒に働くことを好み、おおいに楽しみました。

他のアシスタント達は、ペアになって働きませんでしたが、どういうわけか私達は、彼の訓練が終わって独立が認められてからでさえチームとして働きたい気持ちがありました。

私達は、まるで同じ身体の2本の足のように感じていました。

このような一体感と友情を私達はお互いに体験しました。

私にはこのムーヴメントに多くの素晴らしい友人がいます。

私の伴侶(マドレーヌ)は、あなたが想像できる最高の優しさを持つ人です。

彼女がバガヴァンの帰依者と娘だったとき、彼女はより情熱的で優しく親しみやすかったです。

大きな違いは、もはや彼女が バガヴァンに魅了されることはないということです。

彼女が帰依者であったとき、彼女はバガヴァンのために何でもする準備ができていました。

彼女にとっての神であった彼が、彼女に山から飛び降りる(自殺する)よう命じたならば、驚きもせずに従ったに違いありません; 彼は、神だったのですから。

(彼は宇宙を創造したのだから、何が正しいかについて、遥か途方もなく、彼女よりわかっていたということでしょう。)


Q:あなたはもはやムーヴメントに属していませんが、バガヴァンの帰依者だった時のあらゆる友人、ディクシャギヴァーやラメッシュに対してどんな姿勢でいらっしゃいますか?

未だなおバガヴァンの帰依者である人に対して怒っていますか?

フレディー:私は、以前のようにラメッシュに対して温かい気持ちを持っています。

彼がバガヴァンの帰依者であるかどうかは関係ありません。

友情と宗教は私にとって2つのまったく別々のものです。

全ての人には、その人が何を求めて何を信じるか権利があります。

あなたは、私に怒っているかどうか私に尋ねました。

私の知る限り、そうではありません。

内側のレベルでは、私は未だに、以前親しかった人々に対して同様の愛を感じています。

彼らがバガヴァンのムーヴメントにまだいるかどうかは問題でありません。

外側のレベルでは、私がもうバガヴァンの宣教師ではありませんので、以前のように頻繁には彼らに会っていません。

帰依者の中には、私に失望している人もいます。

以前にしたように私が信じないので、ある人は私に怒りさえします。

私は彼らを裁かず、それを個人的なものとして受けとめません。

私は、彼らが実際には私に怒っているのではなく、私に関する彼ら自身のイメージに怒っているのを理解しています。

それについて(希望を持って・・・) 私にすることはほとんどありません。。


Q:今、パラマチャリヤはどこにいるのですか?

現在、彼は何をしているのでしょうか?

フレディー:僧の規律が作られた後、パラマチャリヤの役割は変わりました。

私がインドを訪れたとき(バガヴァンとパラマチャリヤと過ごすため)、私はいつも彼と多くの時間を過ごしました。

そのときのインドの旅で(1966年か1997年)、彼がもはやムーヴメントに関与していないことがわかって、私はショックをうけました。

彼は私の個人的なガイド(グル)でした。

私が個人でバガヴァンに会う以前、1年間を彼と過ごしました。

私はパラマチャリヤのことがとても好きでした。

彼がどうして離れたかについては、いまだに真相がわからないのです。

以前、1997~1998年になって、帰依者達と彼のアシスタント達は、彼に会わせようとさせませんでした。

なお、私は彼を尊敬しています。

彼に会いたいという私の欲求はしばしば激しいものでした。

したがって、私はかつて、彼に電話をかける特別許可を求めました。

私は、数分間彼と話しました。

まるで彼が私のグルとリーダーとしての古い役割を忘れたがっているようで、2度と電話をして欲しくないように感じました。

現在、彼はチェンナイで暮らしています。

新旧問わず帰依者達との会合やサットサングに出席したようなことは私は耳にしていません。

彼は長年、占星術の研究に熱心に取り組んでいました。


Q:私はアーナンダギリの講演記録を読みました(2006年、ロサンジェルス・カンファレンス)。

人生の初期、彼がまだバガヴァンの学校の生徒だった頃、内側の葛藤の不在と深い平和の状態をバガヴァンが彼に与えた、と。

「今日においてでさえ、彼にはブロックが見える」と、ある私のサイキックな友人は、言いました。

「アーナンダギリの状態はクリシュナ(ヒンドゥー教において最も有名で敬われるアヴァター)を含む歴史上のアヴァター(権現神)や偉大な神々の10倍以上高い」とバガヴァンが言うのを彼女は陳腐に感じました。

これについて何か言うことはありますか?


フレディー:1年間以上、私はアーナンダギリと共同生活していました。

私は彼と毎日、顔を合わせ語りました、時には何時間も。

彼が学業を終えた後も未だに一般的な葛藤を抱え、苦しんでいたことを私は知っています。

私は、このムーヴメントを推進する人々が大衆を魅了するために、神秘的で魅力のある物語を創作するのを見てきました。

彼らには、1つの考えがあります。

「人類救済計画を実現するためにバガヴァンは全世界を霊的に制覇しなければならない。」

1993年、1週間の長期合宿の間、私は自分が指導していた3~5人のグループに、異なるエクササイズを与えました。

2、3週間以前、同様に私自身のブロックに取り組んでいました。

私は偶然、大変役立つエクササイズを発見しました。

私は、自分のグループの幾人かでそれを試して、彼らにも役立ったか見ることにしました。

私は、これらの参加者の1人、シェイカル・ボルゴアンカル博士(バンガロールのコンピューター専門家)にこのエクササイズ(一種の懺悔)を与えました。

彼は深く変容しました。

2、3日後、バガヴァンは、シェイカルが完全に悟ったと認定しました。

シェイカルはその当時、ジーヴァシュラム学校(ここでバガヴァンは校長として暮らしていた)の教頭でした。

彼の変容の後、シェイカルは校長(カンナン氏)がこの懺悔エクササイズを通して悟りを得るための手伝いをしました。

まもなくコースは懺悔だけになりました。

バガヴァンは、彼らが公に全ての秘密の行為、意図、考えを懺悔した後、全員に(もしくは、ほとんど全員)完全で元に戻らない悟りを与えると言いました。

7日間の合宿コースの全員が自分達の全ての秘密を告白するよう命じられました。

何人かは、全グループの前で殺人さえ自白しました。

このムーヴメントが1991年2月(それは、1989年7月の秘教の“実験”として始まりました)に公になったあとの最初の1年半の間、パラマチャリヤはバガヴァンのコースを開催する許可を与えられた世界唯一の人でした。

ソーマンガラム村(チェンナイ空港から10Km)の私達が住んだ場所で、それらの大部分は開催されました。

しばらくすると、主にティルパティ、バンガロール、チェンナイにおいて、私達はこれらのコースを提供する旅に出ました。

ソーマンガラムのコースは、ディヤーナ・マンディール(注:瞑想寺院)で開催されました。

ディヤーナ・マンディール(10×10mの小屋)は最も神聖な場所でした。

そして、その場所にはキリスト教徒にとっての教会と同じような役割がありました。

それが当時、世界で唯一のバガヴァンの寺院であったので、St.ピーター大聖堂に喩えると真実により近いでしょう:
礼拝、祈り、“ 生ける神 ” への奉納のためにバガヴァンの等身大写真がディヤーナ・マンディールの祭壇に設けられました。

バガヴァンは、この写真にアヴァハーナムの儀式をしました。

彼は、写真に彼の意識を込めました;
これにより、もはや写真は身体的なバガヴァンと隔たりなく違いがないものとされました。

コースでは、私達は全ての参加者に写真を通じて「生ける神」と話をして、礼拝するよう要請しました。

彼らはまるでそれが身体的なバガヴァンであるかの如く、同じように礼儀正しく写真(シュリムルティと呼ばれる)を扱わねばなりません。

私達と参加者はプージャ礼拝(ヒンドゥー教の儀式)を写真に行いました。

1日に何度か、私達全員の全身を床にひれ伏した写真はバガヴァン自身でした。

しばしば、私達(アシスタント)は10分間以上、ひれ伏したままでいることがありました。

これは主バガヴァンへ向けて私達の全託としての外側の印でした。

1993年(3月頃)、アーナンダギリは彼の故郷ネロールで講義をしました。

彼は、バガヴァンが数カ月前に始めた大規模な悟りの新たな波について語りました;
本当にもうまもなく、全世界が悟ることになるだろう。

[ 私が覚えている限り、この波が2000年までに人類の完全な悟りをもたらすだろう、と私達は言いました ]。

アーナンダギリは、彼自身が1日足らずで最近悟った何百人のうちの1人であると語りました。

彼は、彼自身の悟るまでの物語を披露しました。

彼は、数ヶ月前に懺悔した全内容を聴衆に語りました。

彼が(以前に1年ほど)ディヤーナ・マンディール(主要な寺院)のバガヴァンの等身大シュリムルティがあった祭壇の傍でマスターベーション(自慰)していた(射精まで)ことと同様に一般的な性的妄想を含め、多数明かしました。

彼はこれについてとても気がとがめました。

それは彼が長い間抱えていた痛ましい秘密でした。

アーナンダギリと私はとても良い友人でしたし、彼を大いに愛していました。

私は、彼が公で個人的な秘密を明かすのを見たとき、彼の謙遜と勇気にとても感動していたのを覚えています。

これは彼に対する私の愛と敬意を深めました。

彼が1年以上の間抱えていたアーナンダギリの大きな罪の意識は、彼の自己葛藤のちょうど1つの例でした。

彼が学校の学生であったずっと後に、これは起こりました。

更に、私は、彼(彼の親友クリシュナ - バガヴァンの息子と一緒に)が動物、特に犬に乱暴であるのを見ました。

私は、彼が犬に意地悪するのを何度か目撃しました。

かつてソーマンガラムにおいて、彼は犬を叩いていて、犬が泣き叫んで怯えきっていても止めさえしませんでした。

それはとても不道徳であると感じたので、私は彼に止めるように頼みたかったです;
しかし、バガヴァンへの私の帰依は、バガヴァンの重要な使命において些細なことだとして、バガヴァンの2、3番目に親しい弟子を諭そうとするのを私に許しませんでした。

私は、バガヴァンがとにかく人類に悟りを与えるだろうと「わかっていました」。

つまるところ、アーナンダギリはバガヴァンの救済計画に携わる中心人物の1人でした。


Q:ちょっと待って下さい、私は完全に理解できませんでした。

何回アーナンダギリは、悟りを得たのですか?

時系列順ではどうなっていますか?

まず最初に何があったのですか、悟りなのか懺悔なのか?


フレディー:それを明確にしてみましょう。

私達は物語を3つの段階、あるいは時代に分割することができます。

13才、15才、16才。

・2006年のロサンジェルス・カンファレンスで、アーナンダギリは、学生(彼が12~14才だったことを意味する)の頃として、彼が深い内部の平和(葛藤がない)の永久的な状態を得たと言いました。

・15才の時、彼はもはや学生ではありませんでした。

その頃の彼は、パラマチャリヤ、ニルマル、私自身、数人のアシスタントとソーマンガラムで暮らしていました。

これは、彼が寺院でマスターベーションを行った頃で、“ 罪の地 ” で演じられた行為のため罪悪感に満ちていた頃です。

・16才の時に、彼は小グループ(バガヴァンと関係が深い人々から形成される)の前で、マスターベーション、性的妄想などを懺悔しました。

数か月後、彼は5千人の前で、「1993年1月の懺悔の後、永久的な内部の平和(=悟り)を与えられて今日に至る」と伝えました。

および彼は、悟りに先立って、罪の告白をしたことになります。

彼は、元に戻らない完全な悟りに幾度も達したことになります。

14才以前、16才の頃、バガヴァンが2005年にアーナンダギリを偉大なアヴァターと認定するまでの18~20才の間。


Q:私は、あなたが今おっしゃったことから、永久的な悟りが永久的である必要はないと理解しました。

2005年に神と認定されるまで、アーナンダギリの悟りは学生だった頃の最初の悟りから、徐々に深くなっていったのですか?


フレディー:私は、真実、教え、アプローチ、名前、歴史などがバガヴァンによって絶えず変更されていると既に言及しました。

13~14才の頃、アーナンダギリは人々が悟りとしてしばしば理解するものと類似している彼の状態を述べるようになりました。

[ 私は、バガヴァンが彼をその年齢で悟ったと宣言したとは思いません。]

2、3年後、1993年に、バガヴァンは、アーナンダギリが永久的に悟ったと宣言しました。

ほどなくして、アーナンダギリと他の数百人の「悟った」帰依者は、バガヴァンが永久的であると言ったことは実際には一時的なものであるのに気付きました。

数年後、1997か1998年頃に、アーナンダギリは再び悟った教師として打ち出されていました。

バガヴァンは、しばしば人々が永久的な最高の悟りを得たと宣言しています。

“悟った”人が再び落ち込むとき、バガヴァンはそれについて話さないようにします。

バガヴァンが永久的な悟りと呼ぶものについて、私は、むしろ “ 悟ったとみなされるものかもしれないし、そうでないかもしれない。
永久的であるかもしれないし、そうでないかもしれない変性意識状態 ” と呼びたいです。


Q:1993年における悟りのプロセスについて、もっと話して下さい。

フレディー:1993年の新年の後、バガヴァンは大規模な悟りを人類に与え始めました。

1992年10月、チェンナイ(バラロクと呼ばれる)の学校全体で、私達のプログラムが開始されました。

その学校の所有兼、運営者であったバート氏とヴァニータ・バート婦人の夫妻は、校長と教頭でもありました。

彼らは、私達のコースに出席するように全ての学生に奮い立たせたか、あるいは命じました。

200~400人の学生の中には、小グループでコースに来た人もいました。

或るものは1993年の新年、後の人に先行しました。

すぐに、バガヴァンは、ほとんど全ての学生が悟ったと宣言しました。

学生は12と15才の間でかなり若かったです。

当時、アーシュラムのアシスタントと滞在者の間で、私は悟れなかった唯一の者でした。

大規模の悟りがスタートした前に、1992年、私達のコースに参加した学生へ悟りを転写するために、パラマチャリヤとアシスタントは1993年1月にバラロク学校を訪れました。

私は悟ったと認定されなかったので、その状態を転写することが出来ない唯一の者でした。

バガヴァンの大規模な悟りの波は今や始まり、すぐに数百万、数十億の人々にそれが起きることになっていました。

私達の喜びは限度がありませんでした!

私達は、長い間これを待っていました!!!

けれども、数カ月後、私達は皆、バラロク学校の学生と参加者の大部分と同様にいわゆる悟ったとされるアーシュラム滞在者が、様々な問題と苦しみについて不満を訴え始めるのを見ました。

彼らが全く悟っていなかったのが明白であり、1993年1月に得ていたどんな状態であれ一時的であったに過ぎませんでした。


Q:2004年にディクシャが取り入れられるようになったほんの数年前、バガヴァンは大規模に悟りを与え始めたのではなかったんですか?

フレディー:それは、波のごとく行ったり来たりしました;
現在まで、常にそれは失敗に終わっているのです。

代わりにバガヴァンは、人類が彼の恩寵などへの準備ができていないとして、それが少し遅れる理由についての弁明を考え出すことは遅くはありません。

1999年の12月3日、私は、主にアーナンダギリによって行われた、30日間の悟りコースのために120人のロシア人と10人のスウェーデン人のグループをネーマンに招きました。

コースをの半分はシュリ・アーチャリヤ・コウシカ・ バガヴァッドダーサによって行われたコースを洗う7日間、コウシカは、「バガヴァンがこのコースの全員がコース終了までに悟っているだろう。
いかなる例外もなく! と言った」と私たちに伝えました。

私達は皆、歓喜してお祝いしました。

皆は1日あたりおよそ18時間続いた講習にでさえ更に熱心に参加し始めました。

これは驚愕のニュースでした。

大勢の人々が、意気消沈していて、悟りは彼らにとって唯一の重要なものでした。

私は、今度(私が悟りを約束されたのはこれで4回目だったと思います)悟れないならば、直ちにこのムーヴメントを離れると心の中でバガヴァンに言いました。

コースが終了した時、私は自分自身の目的のために落胆しているだけでありませんでした。

私は、悟れなかった128人(全参加者130人)の前で、ものすごい恥を感じました。

私は、もちろん誰にも自分の悲しみを見せませんでした。

何と言っても私は、バガヴァンへの信用と信頼について、彼らの源であらねばならないリーダーでした!

悟ったとされる2人のロシア人女性は、後に彼女らが実際は悟っていなかったことを打ち明けました。

かわいそうな128人のロシア人とスウェーデン人の大部分は、困惑して沈みきっていました。

バガヴァン、彼らが信頼を置き期待したその人は、人々を解放するという約束を果たしませんでした。

大勢はバガヴァンが約束を守らなかったので激怒しました。

そして、何人かはムーヴメントを離れさえしました。

腹を立てた全員が、バガヴァンばかりに腹を立てているとは限りませんでした。

幾人かは、代わりに私に対して腹を立てていました;
私が彼らを励起したので、彼らはコースに参加しました。

私はバガヴァンが神で、完全に信用できると彼らに約束した1人でした。

私は彼らに約束したし、彼らも私を信頼のおける人と見なしました。

2001年と2002年にサティヤローカのプロセスに参加した、ある著名なスウェーデンのセラピストが彼のバガヴァンとの経験にコメントしたものをEメールで記しました。

“ 2001年、サマダルシニが言いました。

「2006年までに6万人の人々が悟ることになる」と。

2002年2月、私はサマダルシニに尋ねました。

「計画しているようにすべてがうまくいくんだろうか?」

すると彼女は答えました「間違いなくそうなります。遅くとも2006年までに6万人が悟るでしょう」 ”。

2006年、バガヴァンは、もし参加者が悟った(21日間プロセスの間に)ならば、修道僧の幾人かが参加者の脳で霊的に確認できると言いました。

彼らは、参加者が悟りにどれくらい近いかについて見ました。

脳の頭頂葉は、悟った人と認定されるためには18%以下に閉じた状態である必要があります。

もし、あなたが悟ったと認定されないならば、頭頂葉の開放度合に応じて、あなたがいつ悟れるかをバガヴァンが伝えることになります(正確な年月日さえ告げられました)。

2006年1月、私の友人の何人かは悟りが確実に彼らに起こるとされていた特別なプロセスのために、同年9月にゴールデンシティーを訪れるよう要請されました。

しかし、何も起こりませんでした。

私は、バガヴァンがこの時どんな説明と言い訳を出したか、友人に尋ねるのを忘れました。

更に私は、頭頂葉が十分に閉じた状態で(バガヴァンによれば)、悟ったと認定された人々を知っています。

しかしながら、彼らの状態に変化はありませんでした。

バガヴァンは彼らを悟ったと認定した(彼らはただバガヴァンを信じました)ということでしたが、彼らは以前と同様に苦しみと分離感を感じました。

大規模な悟りのための “ ディクシャ道 ” の、ここ最近3年間で幾つかの変更がありました。

少数の例がここにあります:

まず第一に、2004年、バガヴァンは2012年までに地球上の全ての人々が悟ることになると言いました。

1年ちょっと後、これは変更されました。

現在バガヴァンは、2009か2010年までに6万4千人かそれ以上がワンネスの状態(悟りの最高の形態)にあり、彼らは2012年までに人類を苦しみ(内側の)からの解放の状態に通過させることが出来るだろうと言いました。

[ 内側の苦しみの解放はバガヴァンによれば、悟りより非常に “ 低い ” 状態です。]

今日では、その予測は更に楽観視できなくなっています:
私はバガヴァンの公式サイトを読んだところです。

“ ・・・黄金時代は間違いなく2012年までに産声を上げるだろう ”。
この延期は必要に応じてバガヴァンが数年前(数十年でさえ)から変更を加え続けてきたことです。


Q:あなたは、参加者達(バガヴァンが彼らと約束した後、悟りを得なかった)の面前でものすごい恥を感じたと言いました。

あなたは、インドに彼らを連れていったことを後悔しませんでしたか?


フレディー:今日、私はそれを後悔しています。

もし私が熟知していれば、そうしなかったでしょうに。

私はバガヴァンと彼の人類救済計画について、とても熱狂的になっていました。

私は彼のメッセージと教えを15年以上の間、数え切れないほどの人々に伝え広めました。

多大な不要の苦しみをもたらしてきましたし、彼ら全てに十分に謝ることが出来ず悲しいです。

私に刺激され加わった大勢を間違った道に先導してしまいました。

私は他者を導く盲目の男でした。

私がこのムーヴメントを離れた時、最も簡単なのは、いかなるコメントもせず、全部のことを放って、平凡な職に就いて消え去ることでした。

しかしながら、私はウェブサイトを立ち上げて、私の無知による誤ちを償いたいという思いで、これらの質問に答えました。

私が人々をネーマンや他のアーシュラムで提供されたバガヴァンのコースに行く気にさせた理由は、私がバガヴァンの信じられないくらい素晴らしい約束は彼の本心からであった、と信じたかったからでした。

この信じようとすることは潜在意識でのことでした。

顕在意識において、私は本当に信じたと思いました。

ネーマン事件は、バガヴァンの不注意な振る舞いの多くの例の1つに過ぎません。

そうした事件は、いつも私を苦痛で満たしました。

しかし、 バガヴァンが彼の約束(人類に完全な悟りを与える)を果たす見込みがある限り、私はそれを受け入れて許すことができました。

そうして他の全ては、二の次になりました(他のバガヴァンの過去の言動と比較して、比較的穏やかな非倫理的な振る舞いであったネーマン事件を含む)。

バガヴァンが人類に悟りを与えなかった場合、全ては砂上の楼閣のように崩れ落ちるでしょう・・・

私の意見では、そのとき彼は今日の大勢のいかさま師と偽予言者のチームに加わるはめになるでしょう。

私は、バガヴァンが本物であると期待して最後の最後まで信じていました。

1年前(2006年)、砂上の楼閣は崩れ落ちました・・・

それは少なくとも、私がどう理解したかということです。


Q:私は、バガヴァンが西洋の帰依者に長期間のフルータリアン(果食主義者)になるように勧めたことによって、亡くなった人がいると聞きました。

正しいですか?


フレディー:2001年、インド国外でのムクティヤグニャ(悟りの合宿)を開催するために4人が訓練をうけました。

彼らのうちの1人が私でした。

そのムクティヤグニャは1999年にネーマンで開催された30日間コースと同じコースでした。

それはかなり短く、7日間でした。

この7日間の合宿(ムクティ3)に参加するためには、人々はこれ以前に2つのコースを終えている必要がありました。

私はそれらのコースを、ムクティ1、ムクティ2と呼んでいました。

バガヴァンが語るところによれば「大勢が悟りを得るだろう」とされていたコースがムクティ3でした。

それにもかかわらず、悟りを得る人はいませんでした。

バガヴァンは18/36カ月間プログラムを打ち出しました。

それは西洋の帰依者のためにロジカルに、18カ月間プロセスと呼ばれていました。

私は単純にムクティ4と呼んでいました。

プログラムに一定期間、従うならば、18、36ヵ月のプロセスのどちらでも確実に探求者を悟らせるということでした。

18/36ヵ月間プロセスに乗り出す前に、バガヴァンによる身体的なタッチ(それは、祝福、或いは伝授のように見えました)を必要としました。

それは、2002~2003年のゴールデンシティでの、いわゆるダルシャンツアーの際に無料で与えられました。

ロシア人は、とても情熱的な人々です[私がロシア人と言うときはいつでも、旧ソビエト連合時代からの人々に言及します]。

私は、大部分のロシア人がムクティ3を完了した直後にムクティ4(18/36ヵ月のプロセス)を始める覚悟が出来ていることにも驚きませんでした。

私はこれをアーナンダギリに伝えました(彼はバガヴァンに報告しました)。

そしてバガヴァンがそれをより単純にしたとき安堵しました。

彼は、「ムクティ4プログラムの参加希望者の写真、名前、年齢などをEメールで送れば十分である、そうすればバガヴァンは彼らの写真のプリントアウトに触れて、彼らを悟りにイニシエートする」と言いました。

18ヵ月のプロセスは、100%の果物(ドライフルーツを除く)ダイエット、(ナッツは許容された)、毎日1,5~2時間の瞑想を含み、厳格な禁欲を必要としました。

一度でも間違った食物を食べるならば、全プロセスをやり直さなければなりませんでした(新たに18カ月)。

多くは、深刻な健康問題(無気力を含む)に陥りました。

幾人かは、家族を心配させて病院に入れられました。

人々は体重が激減し、幾人かは典型的な食欲不振のような兆候が見てとれました。

激しい抗議の数ヶ月後、バガヴァンはこの18ヵ月のプロセスを中止しました。

彼は、その代わりに18ヵ月のプログラムの全員に36ヵ月のバージョンに変更するよう頼みました。

それは瞑想の時間は同じでしたが、ダイエットは極端さをなくして1日に1、2度の健康的な菜食主義の食事と成りました。

禁欲は、3年の最後の6ヵ月だけ従えばいいことになっていました。

彼らは宇宙、神と合一したがっていたので、ロシア人の90%以上は当初18ヵ月のプロセスを選びました。

10%以下はより長いバージョンを選びました。

人々は、しばしばバガヴァンの真の意図に疑問を持ちました。

以下のような疑問がありました。

これらの実験は危険過ぎたり極端だったのではないか?

“モルモット”として罪もない人々を利用することは倫理的であったか?

これは、バガヴァンが起こりうる結果を熟知していなかった極端な食事とライフスタイルを含む最新のプロセスでした。

これらを快く受け入れられる人ばかりではなく、彼らの大部分はこの厳しいライフスタイルを実践する気にさせた人に全託しました。

彼らにとってバガヴァンは待望された世界の救世主でした。

彼の言葉は彼らの法でした。

必ずしも誰もがフルーツダイエットで気分が悪くなるとは限りませんでした。

悟りたくてしょうがなかった幾人かは困難な食事やライフスタイルを気にかけませんでした。

そのため、突然バガヴァンが18か月のプログラムを中止した時、大多数の“フルータリアン”を大きく失望させました。

これは、私がバガヴァンの弟子であった15年間で何度も見たパターンです。

バガヴァンは世界を救うための新しい方法を思いつきます。

1つの「実験」がうまくいかなかったり、一時的な結果だけで人々の中に埋もれていく場合、すぐに彼は新しいプロジェクトを始めます(神がかったかのように自信満々で新たに極端な約束を交わす)。

彼と弟子は、大規模な悟りを与えるための“絶対確実な”アプローチを毎新することに余念がなく、昔の失敗は容易に忘れることができます。

今回バガヴァンが間違いなく人類を悟らせるのだとしたら、どうして私達が過去について考える必要があるというのでしょう?

「フルータリアン」実験は1年間ちょっと続きました。

幾人かのロシア人、スウェーデン人などは18カ月の極端な生活の達成までほんの数カ月でした。

残り数カ月で、約束の報酬(元に戻らない悟り)に達するはずでした。

ロシアでは新鮮な果物が全食品において最も高価だったので、18ヵ月のプログラムは困難を極めました。

シベリアと多数の小規模な場所においては、特に冬と春の時期、ごく僅かな種類しかありません。

大勢が貧しく最も安価な果物しか買う余裕がなかったので、彼らのダイエットはとても単調になりました。

この食事制限(平均給料の2倍くらいまで費用がかかる)のために借金しなければならない人もいました。


Q:どれくらいの人が、18もしくは36ヶ月間プロセスで悟りを受け取ったのですか?

フレディー:悟りを受け取った人がいるとは耳にしませんでした。

バガヴァンが18&36ヵ月間プロセスの全ての方法を中止したことを知らずに、終わりまで忠実に従い続けている者すら複数いました。

[当時、ロシア人の多くは、電子メールやインターネットアクセスをしませんでした。]

2004年1月、バガヴァンは21日間プロセスを開始して、全ての旧コースとプロセスを中止しました。


Q:あなたは、「多くのフルータリアン(果食主義者)がプロセスの間に不満を言った。
そして、バガヴァンがそれらを中止したとき、大多数が不満を言った」と言いました。

これは、矛盾していませんか?


フレディー:大部分のフルータリアンの不満は、実際には不満ではありませんでした。

彼らは機嫌の悪い眠っている赤ん坊のようでした。

まったく深刻でありませんでした。

大部分のフルータリアンは、全く18ヵ月のプログラムを破壊するつもりはありませんでした。

フルータリアン・プロセスの困難と危険性は、まもなく彼らを待っている永遠の悟りの信じ難いほどの報酬と比較して、彼らにとって、ごく小さな投資でした。

バガヴァンにそれを中止することを決断させたのは、多数のフルータリアンを心配する家族がいたことと、深刻な病気になった少数派の叫びでした。
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精神世界(スピリチュアル)には数多くのトラップが存在しています。私も懲りずに何度もひっかかりました。安易に鵜呑みにせず、自分自身で調べる、考える、見極めることが大切なんだと思います。経験してみないことにはわからないこともありますが、情報を知ることで罠を回避できることも十分にあると考えられます。
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