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カルキのディクシャ  WHO IS THAT?
インド聖者カルキバガヴァンとワンネスムーヴメント。 その知られざる実態に迫る。 ワンネス劇場の舞台裏で何が起こっていたのか!? その他、悟り系の情報を紹介。玉石混交のスピリチュアル、玉にみせかけた石にはご用心。
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最近では、大相撲の八百長問題が取りあげられていますが、悪事・不正のニュースは尽きることがありませんね。

悪事が明るみになっているのは不正が隠せない時代になりつつあり、浄化されてるのだというような見解も見かけますが、仮にそうだとして悪が減少して善が増加するのか?など、こうした視点での善悪については考えたことがなかったような気がします。

★下の文章でチベットでは結婚がないとありますが、現代においては結婚している人もいるので昔の話ではそうだったのか、もしくは結婚する人が少なかったということだったのかもしれません。
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「ギャーナ・ヨーガ」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
日本ヴェーダンタ協会

多様の中の単一より抜粋

私はこの前の講演で、結局はこの地上の、悪いものは全部なくなって善いものだけが残る、などということは決してあり得ない、と言いました。

それは皆さんの中のある人たちを失望させ、びっくりさせたかもしれませんが、どうも仕方がありません。

反対のことを示されれば喜んでそれを信じるのですが、それが証明され、正しいということがわかるまでは、私にはそう言うことは出来ないのです。

私の宣言に対する一般の反論、しかも一見非常にもっともらしく現れる反論は、我々が周囲に見るすべての悪は進化の過程で次第に淘汰されつつある、もしこの淘汰が幾百万年も続けば、結果としてすべての悪いものは根絶し、善いものだけが残るであろう、というものです。

これは見たところはまことに健全な議論です。
それが本当だったらよかろうに!

しかしその中には誤りがあります。それは善と悪とは永久に固定されたものである、とはじめから決めてかかっていることです。

百という数で示してよいような一定の悪の集団と、これと同じような善の集団とがあって、善の方だけを残しつつ、悪の集団は毎日減りつつあるのだ、というように決めているのです。

しかしそういうものでしょうか。世界の歴史は、悪が善と同じように量を増やしつつあることを示しています。

最低の人間を取り上げてごらんなさい。彼は森の中に住んでいます。彼の楽しみの感覚は大変に狭い。不幸を感じる力も同様です。彼の不幸は感覚世界のことに限られています。もし十分の食物が得られなければ、彼は不幸です。

しかし彼に十分の食物と、動き回って狩をする自由とを与えてごらんなさい。それで彼は完全に幸福です。彼の幸福は感覚のみから成り立っているのです。彼の不幸も同様です。

しかしもしその人間が知識を増せば、彼の幸福も増えるでしょう。知性が彼に開け、彼の感覚的な喜びは知的喜びにまで進化するでしょう。彼は美しい詩を読むことに喜びを感じ、数学の問題が彼にとって我を忘れるほど楽しいものとなるでしょう。

しかし、これらとともに、もっと洗練された神経が、野蛮人が考えつきもしないような心理的苦痛を、より敏感に感じるようになるでしょう。

非常に簡単な例をあげましょう。チベットには結婚がありません。したがって嫉妬もありません。

しかし我々は、結婚はもっと非常に高い状態であることを知っています。チベット人はあの素晴らしい喜び、すなわち純潔の祝福、貞節で徳のある妻が、純潔で徳のある夫を持つ幸福を味わったことがありません。これらの人々は、それを味わうことが出来ません。

そして同様に、彼らは純潔な夫や妻の感じる強烈な嫉妬心、どちらかの半身の不実によって引き起こされる不幸、その他夫婦の純潔の信仰者たちが経験するすべての恨みや悲しみも感じないのです。

後者は一面では幸福です。しかし多面では、彼らは不幸も受けるのです。

世界中でもっとも富み、他のいずれの国よりも贅沢をしている皆さんの国を取り上げて、欲望が強烈であるというだけの理由から他の人種に比べていかに狂人が多いかを見てごらんなさい。

人は高い生活水準を維持しなければならないのです。一人が一年間に費やす金額は、インドの人間にとってはひと財産でしょう。彼に質素な生活を要求することは出来ません。社会が高い水準を要求しているのですから。

社会という車輪は回りつつあります。それは、寡婦の涙や孤児の泣き声によって止まるようなことはしません。これはあらゆる社会の実情です。

享楽に対する皆さんの感覚は発達しています。皆さんの社会は、他のある社会に比べて遥かに見事に出来ています。皆さんは遥かに多くの楽しみを持っておられます。

しかし、もっと少ない楽しみしか持っていない人々は、もっと少ない不幸で済んでいるのです。考えている理想が高ければ高いほど、楽しみも大きく、そして不幸もより深刻であるといって差し支えありません。
一方は影のようなものなのです。

悪は淘汰されつつある、ということも真実でしょう。
しかし、もしそうなら善いものも消滅しつつあるに違いありません。

だが、もしそう言ってよければ、悪は急速に増加し、善は減少しつつあるのではないでしょうか。

善が等差級数的に増加すれば、悪は等比較級数的に増える。
これがマーヤーです。

これは楽観論でもなければ悲観論でもありません。
ヴェーダーンタは、この世界はただ不幸なものだ、というような見方はしないのです。それは真実ではありません。同時にこの世界は幸福と恵みに満ちている、と言うのも誤りです。

それゆえ、子供たちに向かってこの世界はすべて善である、花とミルクと蜜ばかりである、と告げるのは無益です。これはまさに我々が夢想してきたことなのですが、同時に、一人が他者より不幸であったからと言って、すべては悪である、と考えてしまうのも誤りです。

我々の経験の世界をつくっているのは、この二元性、この善と悪の遊戯なのです。

同時に、ヴェーダーンタはこう言っています、「善と悪とは二つのもの、二つの別々の実体であると思うな。それらは同一のもの、それがさまざまの程度に、また様々の姿に顕れて同じ心の中に異なる感情を生じさせるのだ」と。

・・・中略・・・

この世界は、善と悪との世界です。善のあるところ、必ず悪が随います。

しかし、これらすべての顕れ、これらすべての矛盾の背後に、これらすべてを超えたところに、ヴェーダーンタはあの単一性を発見します。

それは言います、「悪いものを捨てよ、そして善いものを捨てよ」と。すると何が残りますか。

善と悪との背後に、あなた自身のものであるところのもの、すなわち真実のあなたが、あらゆる悪を超え、またあらゆる善をも超えて立っています。

そしてそれが、自らを善および悪として表現しているところのものなのです。まずそれをお知りなさい。それで初めて、あなたは真の楽天家になれるのです。

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精神世界(スピリチュアル)には数多くのトラップが存在しています。私も懲りずに何度もひっかかりました。安易に鵜呑みにせず、自分自身で調べる、考える、見極めることが大切なんだと思います。経験してみないことにはわからないこともありますが、情報を知ることで罠を回避できることも十分にあると考えられます。
国内だけでは情報が限られるので海外にも目を向けています。
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