カルキのディクシャ WHO IS THAT?
インド聖者カルキバガヴァンとワンネスムーヴメント。
その知られざる実態に迫る。
ワンネス劇場の舞台裏で何が起こっていたのか!?
その他、悟り系の情報を紹介。玉石混交のスピリチュアル、玉にみせかけた石にはご用心。
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www.nondualitymagazine.org/nonduality_magazine.denniswaite.interview.htm
ノンデュアリティマガジン
デニス・ウェイトのインタヴュー
2010年6月
NDM: あなたはいつから、どのように「ネオ・アドヴァイタ」を意識するようになったのですか?
そして、第一印象はどうでしたか?
デニス・ウェイト: 私が、それらの教え(だいぶ後になるまで「ネオ・アドヴァイタ」として知ることがなかった)を最初に目にしたのは1999~2000年頃にラマナ・マハリシ財団UKを通じてだったと思います。
彼らには、定期ニュースレターがありました。サットサング(必ずしも教師の裏付けがあるとは限らない)の開催予定、本、季刊誌(エッセイ)の刊行予定などを広告していました。
その頃に、トニー・パーソンズとネイザン・ギルという名前が登場するようになりました。そして後に、いくらか好奇心をそそる抜粋がありました。 最初のうちは、それらの資料が新鮮で面白いと思いました。 それは「いまここ」について話り、妥当に見えました。
そのエッセイを読んだ後、私は、トニーの本「The Open Secret(開けっ放しの秘密)」とネイザンの小冊子「Clarity(明晰さ)」を買いました。
NDM:あなたがトニー・パーソンズの本「Open Secret」を読んだとき、いったい何が起こりましたか?新鮮で面白かったという以外に何かありましたか? 赤信号が見え始めたときの決定的瞬間、文または段落がありましたか?
デニス・ウェイト:私は昨日読んだものもあまり憶えていません。したがって、10年前のことを思い出しそうにありません!
しかし、私が過去5年以上でしたことは、読んだ本に自分のスイッチを入れる注釈、または特に役立ちそうな語句を何でも書き込んだ(3B鉛筆で)ことです。
私が憶えているのは、たとえば、ネイザンギルの『Already Awake(既に目覚めている)』のような本を読み終えたとき、書き込んだコメントの数がわずかであったということです。いつも賞賛するとは限りません!
私はアドヴァイタをより全般的に読んで、ますます理解したので、より批判的になったというのが単なる実情だったと思います。
私の科学的な教育のためでしょうが、どんな教えに遭遇するにしても完全に理性に従うと常に主張しました。ここには、一時的に新しい何かを『信用して』心を奪われる覚悟ができているという条件があります。
私が上記の本、またはその著者/教師の教えを十分に熟知していればこそ、彼らが『信頼できる』ということがわかるのです。(事実上、これはサンスクリット語『シュラッダ(shraddhA・・・信頼)』の実際的な定義です。)
NDM:誰が最初に「ネオ・アドヴァイタ」という言葉を造り出したかをご存知ですか?
デニス・ウェイト:私は、誰が最初にこの言葉を造り出したか知りません。グレッグ・グッドがそれを自分の作であるとみなしているのを知っていますが、これが厳密に正確とは思いません。
おそらく、他の誰かが電子メールで何気なくそれを使いました。そして、私はそれからウェブサイトを通じて度々それに言及するようになりました。それから後になって、私の本でそれを取り上げるのは当然のことと考えました。確かに、それは決まりきった言葉です。提案者は非二元性について話していると主張しますが、伝統的な教えを否認するのです。ですから、その発明者は少しも賞賛できたものではないと思います!
NDM:あなたは、これが禅、スーフィズム、カバラ、道教、グノーシス主義などのような他の伝統にもあてはまると見ますか?それは、伝統からそれるものにあてはまりますか?または、これはヴェーダンタ哲学にだけあてはまることですか?
デニス・ウェイト:私は他の非二元の伝統については何も知りません。ただ、おそらくは最終的なメッセージは同じでしょう。関連した方法論を避けて、それらを教えようとしている人々がいるだろうと思います。
実のところ、『新しい教え』を同じものと見なすことができるということは、特定の教師のバックグラウンドまたは参加者のバックグラウンドが別の伝統よりむしろアドヴァイタに関係があるだけに過ぎないということだと思います。
NDM: ネオ・アドヴァイタ教師と分類されるその基準は何ですか?それは単に、瞑想、自問、聖典研究、サンスクリット語の使用など従来の方法なしでアドヴァイタを教える人ですか?
あるいは、それはグルによる秘伝を授からず、系統の継承を通したサンプラダヤ(sampradAya)システムによって資格があるとみなされなかった人ですか?
ライトいわく、『人が出生の正当性を証明できないならば、非摘出子として投げ出されるかもしれません。同じ社会標準が宗教団体に当てはまります。宗教団体が世間に認められた伝統のうちの1つからその家系を証明できないとすれば、それは非摘出子として捨てられる危険にさらされます」。
デニス・ウェイト:ネオ・アドヴァイタ教師は、世界と人が実在しないと主張するのが典型的です。すると、真実を探求している人、およびそれを見出すために彼らを助けられる人はいません(すなわち探求者と教師のどちらもいない)。
ゆえに、真実を求めて努力して時間を無駄にすることに意味がありません;聖典は無価値です(その他も然り)。そうとはいえ、あなたは『彼らはアドヴァイタを教えるが伝統的な手法がない』とは言えません。
なぜなら、伝統的な方法は本当にアドヴァイタとみなされるからです。アドヴァイタは、探求者が既存の真実を認識する妨げになっている無知を取り除くことを助けるための実証された方法論です。
すなわち、既存の真実とは唯一のブラフマン(またはあなたがノンデュアルリアリティと呼ぶことを望む何であれ)です。
ネオ・アドヴァイタは同じ主張をしますが、探求者が無知を取り除くのを助けるものは全く何も提供しません。
ブラフマンだけがあるとするならば、我々は既にそれ(That)であるのは明白です。
しかし、明らかに我々はこれが真実であることを知りません。単にそれが真実であると言ったところで少しも助けになりません。けれども、実際上これがネオ・アドヴァイタが行うすべてです。
NDM:ニサルガダッタが、ナヴナート・サンプラダヤに加わることを願った質問者からこれについて尋ねられたとき、彼は言いました
「ナヴナート・サンプラダヤとは、単なる伝統、教えと実践の1つにすぎない。それは、意識のレベルを意味しない。
あなたがナヴナート・ サンプラダヤの教師をあなたのグルとして受け入れるならば、あなたは彼のサンプラダヤに加わる・・・あなたが属することは、自分自身の感覚と確信の問題である。
結局のところ、それは全く口頭の形式ばったものだ。実際には、グルも弟子もなく、理論も実践もなく、無知も真我実現もない。
すべてはあなたが自分自身を何とみなすかによるのだ。自分自身を正しく知りなさい。自己認識の代わりはないのだ」。
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質問:どのようにして人はナヴナートになるのでしょうか;秘伝伝授あるいは継承によってでしょうか?
マハラジ:どちらでもない。9人の師の伝統(ナヴナート・パランパラ)は川のように実在の大洋へと流れ込み、誰であれそれに溶け入った人が伝えていくのだ。
質問:すなわち、それは単に同じ伝統に属する生きた師による承認ですか?
マハラジ:「私は在る」という感覚にマインドの焦点を合わせるサーダナを実践する人は、同じサーダナを継承して従っている他の人たちと繋がっているように感じるかもしれない。彼らは自分達をナヴナートと呼ぶことによって親近感を表すのかもしれない。それは彼らに確立した伝統に属する喜びをもたらすのだ。
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これが本当であるならば、「私は在る」を理解した人は誰でも彼自身(彼女自身)をナヴナート(ここで述べられたニサルガダッタのように)と呼ぶことができますか?
あるいは、それでもなお彼らはアドヴァイタを教えるのに十分と認められないのでしょうか?
デニス・ウェイト:『サンプラダヤ』という言葉の慣用法はシャンカラを通じて伝わっている伝統と一致しません。サンプラダヤの教師に関するキーポイントは、彼らがそのサンプラダヤの教えを渡す資格を与えられるということです。そして、そのような教えに関するキーポイントは、再三再四証明されてきたということです。
このように、本当にサンプラダヤに『属している』人は、全ての側面を完全に理解するのにどんなに長い時間(すなわち長年)がかかろうとも、そのサンプラダヤの教師と学習しなければなりませんでした。(過去において、これは原語のサンスクリットで聖典を学んで暗記して、それらの意味を探求者に説明する方法を知っていることを意味しました。)
そして、自らが教師にふさわしくなるためには、優れた教師に適切な技能もなければなりません。理想的には悟っているべきでもありますが、シャンカラ自身はこれが実はそれほど重要でないとどこかで指摘しました
【訳注:「聖典を記憶して、探求者への説明方法がしっかり分かっている」と比べたら重要性は低いという意味。重要ではないというよりは、どちらかというと、教える能力が重要という意味合いにとれる。
だが、シャンカラ自身が本当にこのようなことを述べたかどうかには大きな疑問を感じる点であるし、デニス氏自身の言い方も記憶がおぼろげであるし鵜呑みにすべきでないだろう)。】
NDM:これらのしばしば信奉された教師のサンプラダヤのルーツはどうでしょう?:スリ・ラマナとパパジ(papaji)。スリ・ラマナはどのサンプラダヤ・システムに属していましたか? パパジはどのサンプラダヤ・システムに属していましたか?
デニス・ウェイト:ラマナは、どんなサンプラダヤにも属していませんでした。彼は、どんな通常の古代の教えなしでも悟りに達したために、資格のあるグルと一緒に長期学習する必要がないという証明として多くの現代の教師によって認知された人です。
残念なことに、一つの例は一般的な通例を反証しません。そして、ほとんどが長期の正式な教えを必要とすることを歴史は示します。
一般的に、パパジはラマナの弟子であったとみなされています。 彼らは、どんな世間に認められたサンプラダヤにも属していませんでした。私が知る限り、どちらも正式に誰も彼らの『後継者』と認めませんでした。けれども現在、多数の教師はパパジによって教えることを『認可された』と主張します。
NDM:これらの教師の両者からの系譜を主張して広告している教師が何人かアメリカにいます。このようなものです:
www.gangaji.org/index.php?modules=content&op=lineage
この系譜の主張は正当とみなされますか、それよりむしろサンプラダヤ・システムによれば不当な系譜でしょうか?
デニス・ウェイト:サンプラダヤという言葉は(アドヴァイタにとって)、実際上はグル-弟子の連鎖でシャンカラとガウダパーダに伸びている系譜を含意します。
ですから、この質問に対する回答は、ラマナやパパジの信奉者であると主張している誰もがサンプラダヤに属していないということです。
NDM:それでは、この連鎖(リンクをご覧下さい)
www.advaita.org.uk/teachers/ramana_parampara.htm は分家として有効ですか?
サットサング、セミナー、リトリートを開催し、本を書くなどしている世界中の著名な教師が75名ほどここにいます。
これらの誰もがシャンカラとガウダパーダまでさかのぼる時代のサンプラダヤの摘出子となることができないので、彼らは皆、言わば「非摘出子」として捨てらなければなりませんか?あるいは、それを礼儀正しくネオ・アドヴァイタとみなすべきでしょうか?
デニス・ウェイト:ラマナの『系譜』の最上部にお気づきになるでしょう:「(混じりけのない系の直接的な師弟関係(『実体で』)を気にとめて下さい、そして点線は『影響』だけです。すべてのリストは私の知識の及ぶ限りであり、誤っているかもしれません。)注:厳密に言って、ラマナ・マハリシは彼の名前において教えることを決して誰にも許可しませんでした。したがって、これは正当な系譜ではありません。」
私は、これらの図表の情報の大半を得るために、言及された教師のウェブサイトを活用しました。 多くの場合、教師は単にラマナから影響をうけたと述べて、ウェブサイトに付け加えているだけです-すなわち、私は彼らが言うことを信頼します。
あなたは、このサンプラダヤ問題を重んじているように伺えます。 正式にサンプラダヤに属さないことによって事実上、読む/聞く価値がないことを意味するわけではありません。
それが意味することは、サンプラダヤの中で自動的に伝えられ習得して完全に理解されることである教授法、助けとなるもの、物語、比喩など全ての完全理解を彼らは持っていそうにないということです。
しかし、彼らを教えた人が、彼ら自身の認識、理解力などによる良い理解を持っていたので彼らはまだ良い教師であるかもしれません。
ポイントは、サンプラダヤの外は見込みが推し量れないということです。
残念なことに、単に金銭を稼けるため(サンプラダヤ教師は決して金銭を求めない)の商売をしている、悟ってもいないし良い教師でもない自称教師が大勢いるのが実情です。
NDM: ところで、私はリストにムージ(Mooji)の名を見かけません。 彼もパパジがグルであったので、このリストにのっているべきではありませんか?
デニス・ウェイト: 系譜情報の「ホームページ」に以下のような声明があります:
「図表では、私はできるだけ正確に教師をリストアップしました。私が入手できる限られた情報 - すなわち主にインターネットを活用しました。彼らがどこに位置するのか確認するために、すべての現行の教師と連絡をとったのではありません。私がまだ知らずにいるインターネットに姿を見せない多くの教師がいるのも確かです。
最終的に、所定の教師がアドヴァイタ教師であるかどうかに関する私の判断は、しばしば彼らのウェブサイトの内容を短時間で評価することによります。
何人かは特に影響力があるとして他の伝統を示しますが(例えば禅やゾクチェン)、それにもかかわらず、まるで彼らがアドヴァイタであるかのように『読み取れる』記事を書きます - 私は、いくつかのケースでこれらに『善意の解釈』を与えました。それ以外のものは単に評価する資料が彼らのウェブサイトにないので除外されているかもしれません。何人かの教師は、複数の図表に登場するかもしれません。したがって、私は修正を必要とする誤りを訪問者から指摘してもらうことで、追加(削除)など修正することにしています。」
これにもかかわらず、これまでに3,4人ほどが誤り(手抜かり)を指摘するために私に連絡してくれたと思います。ありがとうございました!現在はムージをラマナ図表に加えてあります - もし彼がこれを読んでいたらお詫びします。
NDM:それではニサルガダッタと彼の系譜についてはいかがですか?彼の系譜は8世紀(シャンカラ)には辿り着かず、13世紀に辿り着くようにしか見えません。あなたの図表によれば、この違いはいかがなるものですか?
www.advaita.org.uk/teachers/navnath_sampradaya.htm
ともあれ、彼の系譜を遡るとダッタトレーヤに辿り着くのではないですか?
デニス・ウェイト:前述の如く、私はインターネットで見出せる情報を得ることができただけです。私は、いかなる権威にも自分を位置付けません。
あなたは、過去にインディアンがどんな経歴も記録することに全く関心がなかったことも認めなければなりません。
アドヴァイタでは、結局のところ、人物は実際の実在であったかわからないのです。シャンカラの場合でさえ、いまだに研究者は彼がいつ生きていたか(紀元前数世紀~紀元後8世紀頃に帰結される)について議論し続けています(ほとんどは、それが多分後者であったであろうことに同意します。)おそらく系譜の歴史的記録で有効なものは、シャンカラの系列のみです。
NDM:あなたは、シャンカラまで遡る系譜に属している現代の西洋教師の名前を提供できますか?
デニス・ウェイト:おそらく、西洋人はラマナとニサルガダッタのような人々の出現でこの教えについて学び始めただけでしょう。そして、我々はこれらについてすでに話りました。
スワミ・チンマヤナンダ(Chinmayananda)とダヤナンダ(Dayananda)のような教師はスワミ・シヴァナンダと結びつきがあります。そして、チンマヤナンダは現在、西洋の弟子(教師)がいます。
たとえば、ジェームズ・スワルツは、チンマヤナンダの弟子およびダヤナンダに属するマイケル・コマンズの弟子でした。
しかし、私はシヴァナンダとタポヴァーナムがシャンカラまで遡ることができるかどうかわかりません。
マサチューセッツにあるアドヴァイタ瞑想センターのジョン・レーマンはシュリ・バラティ・ティルタ・スワミガル(Sringeri Sharada Peethamの現シャンカラチャリヤ)から指導を受けています。;私が知る人では、彼がシャンカラまで辿ることができる唯一の西洋人かもしれません。ですが、私がわかっている限り、彼は系譜に正式に認められてはいません。すなわち皆無ということになります!
NDM:西洋人がこの地点まで受け入れられなかったのは何故だと思いますか?彼らは、何が欠けているのでしょうか?それは、彼らの能力あるいは他の何かですか? 法王シュリ・バラティ・ティルタ・スワミガルは、アドヴァイタヴェーダンタにおいて高僧を置かないのでしょうか?
デニス・ウェイト:系譜の形式は、ヒンドゥー伝統の一部です。私はサンニャシだけが『スワミ』のタイトルと新しい名前を与えられると思います。そして、そのライフスタイルは大部分の西洋人にアピールするとは思いません!
また、私が先に言ったように、ごく最近、比較的に語られるようになるまで、西洋人はアドヴァイタにまったく関心がありませんでした。
しかし、私はこれはもう1つの「人の注意をそらすもの」であると思います;それは、何も能力やふさわしさについて言いません。何人かの西洋人がスワミ・ダヤナンダに学んで、優れた教師になっているのも確かです。マイケル・コマンズは、現在『スリ・ヴァースデーヴァチャリヤ』です。
系譜に関するもう1つのポイントは、名が示すように昔からの慣わしであると思います。私は、一個人(シャンカラチャリヤ、あるいは別の者)が一方的に異なることを決めることができたとは思いません。
ただし、このような議論は、まったく私の専門分野の範囲外です。あなたがインドの文化様式の質問をしたいならば、他の誰かに尋ねる必要があります。
NDM:以下のスーザン・フォクストンとの質疑応答をご覧になっていただき、伝統的なアドヴァイタ・ヴェーダンタで道徳がどう理解されるかをお話いただけますか?
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質問: 道徳(善と悪)はどこでこの均衡をとるのですか?
スーザン・フォクストン:善悪はありません。そのものだけがあります(あるものがあります)。これは、何が善なのか、何が悪なのかについての多くの異なる考えも含みます。
ともあれ、思いやり(慈悲)はしばしば望ましいように見えます。しかし、一人ひとり皆が例外なく一貫して慈悲深ければ・・・吐き気を催します!そうであったらどれだけ退屈なことか?それに、より愛し合うことになって人口が爆発するでしょう。
我々は、ユートピア(理想郷)で暮らしています。我々はユートピアです。我々は、あらゆる可能性を持つ完全な二元的遊び場であって、我々は輝いています、織り込んでいます、引き裂いています、育んでいます、破壊しています、『今』を創造しています。
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デニス・ウェイト:ヒンドゥー・ダルマ(法)は、多くの本で書かれる広大な主題です。言うまでもなく私は専門家ではありません!
ごく単純に(私の理解によれば)、キーポイントはカントの『必須道徳』に類似しています:自分がしてもらいたい行いを、他者に行ってください。あなたが他者から感情的に、肉体的に傷つけられたくないのであれば、他者を傷つけないようにします。他者が行うことがあなたに何も危害をもたらさない限り、彼らの好きにさせておきます。
NDM:一部のネオ・アドヴァイタの教えは現実と真実の本質について他者に誤解させることでヒンドゥーダルマを犯していると思いますか?
デニス・ウェイト:先ほど言ったように、私はヒンドゥーダルマについてごくわずかしか知りませんが、とにかく、このようなものは人の注意をそらすものだと思います。
霊性探求の背景において、教師の役目は弟子が真実を認識するのを助けることです。たいてい探求者は生涯このことについての誤解と誤った信念を持ちます。そして、これらを解決する過程は必然的に段階的(ゆるやか)なものであり、教師側の能力と忍耐を必要とします。
探求者の個人レベルを理解することにおいて何もわからないであろう種々の教師のサットサングに1、2回参加することで悟りを期待するのは馬鹿げたことです。資格のある教師はこれを熟知しており、どんな関わり合いも逆に双方を誤った方向に導き、事実上、不道徳であるということを認識します。
このように言うと、大部分のネオ・アドヴァイタは、人が彼らがこの矛盾を避けて、偽装または不正の考えられるあらゆる料金を逃れると主張するかもしれないように、いずれにしろ彼らは教えであることを否定します。
けれども、彼らはサットサングと合宿を広告し、それらに参加する探求者から料金をとります。何はともあれ、それはいくぶんあいまいな状況です。
NDM:あなたの目覚めについて教えていただけますか?それはいつ、どのように起こりましたか?
デニス・ウェイト:先の回答で述べたように、他の誰かが悟っているのかどうかを知ることは出来ません。ですから、この質問に対する回答は、誰にせよ重要ではありません。
もし、誰かが「彼らは悟っている」とあなたに話すとしたら、どう結論付けますか?
それは利己主義、傲慢、高慢を臭わせます。そのいずれも悟りに属する特徴ではありません。そのうえ、大部分は言葉が意味することを適切に理解しないという非常に重要な問題があります。
したがって、あなたが『Yes』と答えるならば、彼らはその誤解と関連してこれを解釈することができるだけです。ですから、私が言えるのは、お伝えするためのどんな特定の『悟り体験』もありません。(いずれにせよ、体験には時間の中で始まりと終わりがありますから、モクシャ(常在する自由)とは無関係です。)
NDM: モクシャについてもっと教えていただけますか。この自由はどのようなものですか?それは、絶え間ない至福の状態のようなものですか?これはあなたのワサナに何をしますか?あなたはまだ、好きや嫌い、嫌悪や欲求がありますか?
デニス・ウェイト:ここで、あなたはいまだに言葉を誤解しています。悟り= 自己認識とはあなたが『ブラフマンは、真実(truth)です;世界は、虚偽(mithyA)です;個人は、ブラフマン以外ではありません』ということを知っているのを意味します。あなたには、もはやこれに対するいかなる疑いもありません。
あなたがここで語っていることはジーヴァンムクティのことのように思います。 平和、公平無私;恐れの欠如;結果に対する無関心など。
これが生じる条件は次の2つです。
(A)解放の準備事項(sAdhana chatuShTaya sampatti)が前もって完全に満たされていたならば、悟り到達に向かう。
または(B)更にその先、必要であればニディディヤサーナ(nididhyAsana・・・見解への熟考)が悟りに続いて起こる。
彼らが悟っているかどうかにかかわらず、誰もが既に『自由』です。また、より小さい程度ではありますが、ジーヴァンムクタは欲求など持ち続けます。
ただし、ポイントは彼らは実現しても得意気にならないし、果たせなくても落胆しないということです。すべては、平静をもって『来るものに従います』。(そのように、私は理解します!)
(中略)
NDM:ジェームズ・シュワルツが言う『悟り病(Enlightenment sickness)』に対してどう思いますか?
彼は、『悟りに至る方法(How to attain enlightenment)』の261~262ページで、これに言及します。彼は、それを「疑似悟り」または「悟り病」と呼びます。
彼は、言います、「実現(悟り体験)の後、たいてい皆に対して強い親愛の感覚がこの時に起こります。そして、あなたが知っているものを他者と共有しなければならないと感じることが殆どです。
しかし、あなたがそうしようと試みる前に、自分が悟り病を患っていないかチェックしてみるといいでしょう。それは悟りと類似しています。それは有名な病気であるけれど病人が診察をうけるのは難しいです。それは慢性状態になる前に、迅速に治療されるべきです。
悟り病の穏やかな徴候の1つは、超絶的な退屈です。無理もありません。あなたはこの人生で成し遂げなければならなかったことの全てを成就した感じがして少し消極的になります。今後あなたが行うことは根本的にどんな違いも生じないということと人生の基本的な無意味さについてはっきり実感します(結局、無知は定着したままです)。
それは、行為者の感覚が残っていることとラジャス(rajas)の浄化されていない痕跡に起因します。あなたはわずかな興奮を切望するかもしれず、あなたの人生は無知で汚され混乱します。
しかし、あなたは後戻り出来ないことをわかっています。あなたがこの現実のむなしさを虚無(void)と解釈して、漠然と幻滅を感じるならば、タマス(tamas)の浄化されていない痕跡のために、あなたが悟り病にかかっているのだということを知っていてください。
悟りは虚無の体験ではありません。認識の純粋さが虚無として現れるだけで虚無はありません。
もし、あなたが壮大な出来事として悟りを明言し、大きな物語に仕立て上げるならば、あなたは悟り病にかかっています。
目覚めた(覚醒)、悟った、「出来上がった」と自分自身で他者に語り聞かせているとしたら、あなたは悟り病にかかっています。
あなたが自己の言葉を福音として信じるならば、あなたは助けを必要とします。
あなたの行為が常識と一致するかどうか。あるいは、ダルマ(法)または伝統と調和しているか、人を騙す教えであるのかどうか理性を持って判断して下さい」。引用終わり
デニス・ウェイト:ジェームズ・シュワルツは素晴らしいです!彼は世界最高の西洋教師ではないかもしれませんが、典型的なサットサング参加者にとって最高の西洋教師であることは間違いありません。彼はいかなる手加減もしません。そして、霊性を『探求する』ことに関して誤った見解の全てを修正します。
あなたがこの質問をしたことが嬉しいです。というのも私は、過去2~3カ月間この本を読んでいましたので。 私はいつも大量の本に囲まれているので、特定の1冊を読みきるのに時間がかかるのです。今は最終章を読んでいるところです。この本を他の人にも読んでいただきたく、アマゾンで書評することを促されています(それが5つ星の評価に値することは言うまでもありません-もしそれ以上の評価基準があれば、5つ星以上です。)
彼が言うことに付け加えるならば、それらの教師全員が実際に病気にかかっている徴候を示すとは、私は思わないということです。私は、何人かは念入りにアドバンテージ(優位)を獲得しているのではないかと懸念します。
彼らは単に他者の出費で手っ取り早く楽に生計を立てられるように、故意に予期される特徴の全てを採用して、キーフレーズを暗記します。これは皮肉なものですが、それが事実かもしれません。
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精神世界(スピリチュアル)には数多くのトラップが存在しています。私も懲りずに何度もひっかかりました。安易に鵜呑みにせず、自分自身で調べる、考える、見極めることが大切なんだと思います。経験してみないことにはわからないこともありますが、情報を知ることで罠を回避できることも十分にあると考えられます。
国内だけでは情報が限られるので海外にも目を向けています。
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