カルキのディクシャ WHO IS THAT?
インド聖者カルキバガヴァンとワンネスムーヴメント。
その知られざる実態に迫る。
ワンネス劇場の舞台裏で何が起こっていたのか!?
その他、悟り系の情報を紹介。玉石混交のスピリチュアル、玉にみせかけた石にはご用心。
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■Where’s the Methodology?
方法論はどこに?
Finally, Self Inquiry has survived as a viable means of knowledge because it reveals the truth with a refined methodology. Many realize nonduality within and outside the tradition but are incapable of teaching nonduality because they are either unsuited to teach or lack a viable method—or both.
結局、自己調査は真実を明らかにする洗練された方法論があるため、認識の現実的な手段として残存しています。
多くは、伝統の中および外で非二元性を実感したものの、非二元性を教える資格(能力)はありません。というのも、彼らは教えることに不適当であったり、実行可能な方法を欠いている、またはその両方であるためです。
多くは、伝統の中および外で非二元性を実感したものの、非二元性を教える資格(能力)はありません。というのも、彼らは教えることに不適当であったり、実行可能な方法を欠いている、またはその両方であるためです。
Neo-Advaita’s statements to ‘be the space for the thoughts’ or ‘be as you are” are not skillful teachings because they deliver a nondual teaching of identity in experiential language. Such teachings give the impression that something can be done to achieve awareness and that Self realization can come about through an act of will.
ネオ・アドヴァイタの声明、「思考の隙間であれ」、「あるがままであれ」は熟練した教えではありません。何故なら、彼らは経験的専門用語で独自の非二元性の教えを伝えるからです。
そのような教えは気づきを成し遂げるために何か成し得る、意志の行為を通じて自己実現に至ることができるという印象を与えます。
In traditional Advaita, not only should the teacher have realized his or her identity as the Self in such a way that he or she never re-identifies with the belief that the ‘I’ is limited, but he or she should be able to wield the means of knowledge skillfully.
伝統的なアドヴァイタでは、教師は「私」は限定的であるという信念に再び同一視することがないような方法で、自己(Self)として自分の個性(identity)を実現しているのは当然ながら、彼(彼女)は巧みに知識の手段を使いこなせるべきです。
Many Neo-Advaita satsang teachers use a picture of Ramana to lend legitimacy and gravitas to their satsangs while they promote one of the most famous Ramana myths, that silence is somehow the ultimate teaching.
ネオ・アドヴァイタ・サットサング教師の多くは、サットサングに正当性と厳粛さを添えるためにラマナの写真を利用して、沈黙は何らかの形で究極の教えであるという最も有名なラマナの神話のひとつを宣伝します。
While understanding the nature of the Self in silence apparently finishes seeking for a very few highly qualified individuals, silence is certainly not superior to the skillful use of words in bringing about enlightenment.
ごく少数の有能な個人にとって、探求の最終段階に沈黙の中で自己の本質を理解することが明白な一方、沈黙は悟りに導く上で言葉の巧みな使用に勝らないのは確かです。
This is so because silence is in harmony, not in conflict, with self ignorance, as it is with everything. One can sit in silence without instruction for lifetimes and never realize that one is the silence, meaning limitless awareness. Knowledge, however, which a legitimate means of knowledge, destroys self ignorance like light destroys darkness.
これは沈黙が自身の無知(同様に全てのもの)と対立しない調和にあるためです。一生涯を指導なしに静かに座っている人は、沈黙(つまり無限の気づき)を認識することはありません。
しかしながら、合理的な知識の手段は光を遮る闇のような自身の無知を破壊します。
Additionally no experience, including the experience of silence, can change thinking patterns. An experience of nonduality may temporarily suspend thought or increase one’s resolve to see oneself as limitless awareness, but the notion that the ‘I’ is limited, inadequate, incomplete and separate is hard wired.
また、体験(沈黙の体験を含む)は思考パターンを変えることはできません。
非二元の体験は、一時的に思考を停止させたり、無限の気づきとして自分自身を理解するための決意を強めますが、「私」は有限、不十分、不完全、分離しているという概念は配線されているかもしれません。
It is only by diligent practice of the knowledge ‘I am limitless ordinary awareness and not this body mind’ that the mind’s understanding of reality gets in line with the nature of the Self.
自己の本質に気が付くマインドの現実に関する理解は、「私は無限の気づきであり、この心身ではない」の熱心な実践によるものだけです。
Why are binding desires such a major problem for anyone seeking enlightenment? Because they disturb the mind to such a degree that contact with the Self as it reflects in the mind is broken, making Self Inquiry impossible.
なぜ、束縛する欲望が悟りを求める人にとって非常に大きな問題なのでしょうか?
何故なら、それらはマインドに反映する自己との接触が断たれる程にマインドをかき乱して自己調査を不可能にさせるからです。
It is contemplation on the reflection of the Self in the mind that allows the intellect to investigate the Self in line with the teachings of Self Inquiry and gain the knowledge ‘I am the Self.’
自己調査の教えに沿って自己を調査することで、知性が「私は自己である」の認識を得るのを可能にします。それはマインドに反映する自己に対する熟考です。
Neo-Advaita characteristically wiggles out of the sticky trap of desire by claiming that the Self is free of desire, which it is, but if I take myself to be a human being, it is definitely an impediment. If you swallow Neo-Advaita’s idea—and what experience-hungry ego would not?
ネオ・アドヴァイタは特質上、「自己は欲望に関して自由である」と主張することにより、欲望の粘着トラップでジタバタします。
ですが、私が自分自身を人間とみなすならば、支障があるのは明確です。- あなたがネオ・アドヴァイタのアイデアを鵜呑みにするならば、エゴは体験を渇望するのではないでしょうか? -
—it can lead to an unhealthy moral indifference. You can pursue your desires without reference to dharma and justify your behavior with the knowledge that you are not the desirer. You are ‘just playing in Consciousness.’
それは不健康な道徳的無関心につながる場合があります。あなたはダルマ(法)を参照せずに欲望を追求し、「あなたは欲望する者ではない。あなたは“意識の戯れ”である」という知識で自分の振る舞いを正当化することもできます。
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⑪に続きます。次回ラスト
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精神世界(スピリチュアル)には数多くのトラップが存在しています。私も懲りずに何度もひっかかりました。安易に鵜呑みにせず、自分自身で調べる、考える、見極めることが大切なんだと思います。経験してみないことにはわからないこともありますが、情報を知ることで罠を回避できることも十分にあると考えられます。
国内だけでは情報が限られるので海外にも目を向けています。
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