カルキのディクシャ WHO IS THAT?
インド聖者カルキバガヴァンとワンネスムーヴメント。
その知られざる実態に迫る。
ワンネス劇場の舞台裏で何が起こっていたのか!?
その他、悟り系の情報を紹介。玉石混交のスピリチュアル、玉にみせかけた石にはご用心。
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Think for Yourself
サダシヴァヨギ:著
第1章.平和 - 信じるのか、体験するのか?
あらゆる人が、性別、年齢、文化といったものに心理的に影響され互いに競い合うように日々を過ごしている。
何がしかの欠乏感を抱き、満たされることを切望しながら。
人生に何が欠けているのか、何を望んでいるのかと人々に尋ねてごらん。
すると、あらゆる種類の答えが彼らから返ってくることだろう。
立派な教養を身につけて、いい人生を送りたい。
うん、それから?
経済的に独立したい。
それから?
忠実なパートナーが欲しい。
それから?
子供を生んで家庭を持ちたい。
それから?
素敵な仲間、美味しい食事、快適さ、名声、安全。
それから?
それで私は幸せになれると思う。
それから?それから?それから?・・・・・平和。
平和。どういうわけか、いつもこれに行き着くのだ。
たとえどこから始めたにせよ、その人は最後に平和を求める。
他のどんなもの以上に我々が人生で本当に求めているように見えるのは平和である。
しかし、平和とはいったい何だろう?
誰もが最終的に求めるこの平和とは?
攪拌(継続的な活動)があるとしよう;
すると、攪拌、活動がない場合、平和が訪れる。
平和とは攪拌と活動がないときのマインド(心)の状態である。
では、活動とは何だろう?
我々の人生において継続的に活動して変化するものとは何だろうか?
感覚を遮断してみたとしよう、目を閉じて、耳に栓をする。
平和があるか?
そうではない、思考を繰り出し、動き続けるものがある。
それがマインドだ。
マインドを停止してその活動を止めてごらん、そうすれば平和が達成されるだろう。
それがオリジナルの位置(Brumadya〔2つの目眉の間の上のスペース〕)に戻る時だけ、マインドは自然に止まる。
従って、誰もが本当に望み、捜し求めているものはマインドの活動の停止である; その結果が平和である。
しかし、人が何を望むかについて尋ねるならば、彼らは弱々しく答えるかもしれない -「私が欲しいものは、この女性(男性)、または “あの宗教”、“あの理想”、 “あのライフスタイル” が欲しい。」
そのとき実際、それは彼らがいる彼らのオリジナルな中心点である。
そういうわけで、世界は欠乏に満ちているように見える;
本当に欲しいものが何なのかを我々が理解しないので。
そして、そう、我々は継続する活動から一時的に逃れるために四方八方に飛び出す - その状態に平和はない。
私達の人生は不正直に平和を探索している。
それでも、各人の内部には、それを越えて求めている何か(より深い静寂、平和)があることを確実に知っているには違いない。
我々がそれが存在するということを知らないならば、どうやってその何かを捜すことができるだろうか?
したがって、我々が求めているのは我々がそのポイントを知っているからである: いつかどこかで、我々は、このポイント、平和、活動の停止を経験したに違いない。
病気である人が健康を切望するようなものだ。
なぜって?彼らは、以前に感じていた健康について知っている - それが病気じゃないってことを!
健康が何であるかをまったく知らなければ、何かの病気を抱えて生まれても悩まずにいるだろう。
このように、人々は皆、彼らのオリジナル(原初)の状態である平和を知っている。しかし、彼らは忘れているのだ。
もしくは無視しているのか?
したがって、平和とは <このもの> から <あのもの> に、(この経験の感覚から、その経験の感覚へ)という活動の中止である。
平和とは、マインドがその創造的活動を止める時である。
したがって、全体の答え(そして、問題の原因)は、世界(外側)ではなく、我々(内側)にある。
それは外部のジレンマではない。
そして、満足感がない限り、平和を探し求めるあらゆる行為、SEX、薬物、宗教、社会的な理想、飾られた人生が平安の感覚を真にもたらすことはない - 常に、より多くを欲している。
それらは、一時的な平和の感覚を引き起こすかもしれないが、マインドが外部からの緩和(痛み止め)によって静まったのであって、彼ら自身は平穏ではない(平和の状態ではない)。
我々は、平和そのものの永久的な段階を追求する代わりに、それらが我々に(一時的な)平和をもたらすと見なしている。
*
ヒマラヤに暮らす或る猫についての物語がある。
その猫が汗をかくと、毛皮から芳香が放たれる。
ある日、突然に猫は自分自身の香りを嗅ぐに至った。
「ああ、どうしたことか」と呟いた、「なんて素晴らしい香りなんだ!この美しい香りの源を見つけなくては。」
そういって探し始めた。
香りの源を探そうと猫が早足で歩き始めると共に汗もより多く流れる。
よりいっそうの香りが放たれた。
「よし、いいぞ。香りがはっきりしてきた。かなり接近しているに違いない。」
そして、ますます動きを速めた。
さらに汗をかき、さらに香りが強まった。
「よぉし、香りが強烈になってきた。香りの源はかなり近いはずだ。」
そうして、猫はさらに動きを速めた。
しかし、猫は疲れきって、探すのを止めて木の根元で休まざるを得なくなった。
熱心に探し求めていた芳香の源を知ることなく、極度の疲労によって息絶えた。
もし、いったん立ち止まって自分自身の匂いを嗅いでいたとしたら。
そのように我々は我々自身の人生を演じている。
もし我々が自分自身を正直に分析するならば、内側を欺いて外側に追い求めているとわかるだろう。
すべての偽りが我々の内側にある。
性の影響は内側で起こっている;
薬の影響は内側で起こっている;
私たちの安心、静穏、愛の感覚 - それらすべては内側で起こる。
我々は、他人に起こる特定のうわべの出来事を誤解することによって、実際に活動と攪拌を増加させる。
『男性』においてさえ、『女性』も彼の内側にいる。
二元性によって外見と反対の反応(女性の精神)が引き起こされるとしても、活動が生じて本来の状態(実際は男性であり女性である)から切り離そうとする。
性別が我々の内部で生じているのは我々が理解する物理的な性別の制定によるものである - 相反する極性(男性と女性)は外部ではなく、内部で統合する。
2つに割った種子が2等分されたものであるように -
我々は元来、完全な種子である。
現在、我々は、自分たちが種子の半分でしかないと信じ、完全性を探し求める生活を送っている。
我々は無意識のうちに(気がつかずに)実在を否定している。
それは我々が五感を通じて探し求めている自己と同一の完全性である。
*
キリスト教の物語(失楽園に関する)は、神の他に単体の生物がいたと述べている。
男性であるには女性への依存が不可欠であろうから、それはおそらく『男性ではありえなかった』 - 唯一の生物がいた。
しかし、神を否定することによって、それは2つに分割され、すべてが楽園だった庭から隔てられたのであった。
現在、一方は分割したもう一方(補足し合うもの)を捜して走り回っている。
(キリスト教に限らず、)あらゆる宗教についても同様である。
我々は仏教、ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教、その他多くの別々の社会制度を生みだした。
彼らは核心として同じこと(慈悲、平等、正直)を述べているのではあるが。
しかし、これらの宗教の聖職者、リーダーは、「これをしなさい」、「あれをしなさい」と我々に命じる。
また、彼らは偉人の名前を連呼する。
けれども、彼ら自身は説教の内容を実践していないのだ。
「これをしなさい」、「あれをしなさい」とは言わなかったであろう偉人の名を借りて彼らは宗教を構築した。
だが、それを実践している者がいるだろうか。
彼ら(偉人)は、活動を止めて、独りで1点にじっとして、感覚の刺激を避けて、原点(完全性)に戻ることによって彼らの生を変容させた。
彼らは神から分離していることをやめた。
そうして、彼らは言った「私は道だ」、「私のあとに続きなさい」、「私がそうしたように。」
それにもかかわらず、我々の宗教では彼らの言ったことに耳を傾けていない(真意を汲み取ることが出来ずにいる)。
我々は彼らに従っていない。我々は彼らがしたようにやっていない。
我々は自身に問うべきである。
ブッダに追従すると主張する何百万の仏教徒がいるというのに、なぜ、新しいブッダがいないのだろうか?
指標を思い出すことだ。
「あなた達全員がブッダなのだ」とブッダは言った。
なぜ、我々はそれを無視し続けるのだろう?
なぜ、仏教の体系は新しいブッダをちっとも輩出しないのだろう?
なぜ、何百万のクリスチャンがいて、キリストのような人がいないのか?
なぜなら、人々はキリスト教を「している」から。彼らは、教師の名のもとにそれ自体を促進する宗教団体に従う。
彼らは教師自身には追従していない。
ブッダやキリスト(あるいは他の偉大な教師)に真に追従するためには(つまり、彼らが成したように成すことで彼らのように成るために)、活動を終焉し、我々が宗教用語で神と呼ぶ原点と融合することである。
そして、それには分割した極性が融合して1つになることがポイントである。
キリストはこのように言った。「私の父と私は1つである。」
ある男が、最愛の人、キリストの家を訪ね、ドアをノックした。
「どなたかな?」と内側から尋ねる声がした。
「私です」と男が返事をした。
「すまんが、わしと汝のための居場所は内側にない。」
さて、男は立ち去って、その状況、彼の存在と現実について沈思熟考した。
しばらくして、彼は最愛の人の家に戻り、再びドアをノックした。
「どなたかな?」 先程と同じ問いかけがあった。
「汝なり」
すると、ドアが開かれた。
我々の分離の原因は、二元性に根付いた極から極への継続的な活動の結果であることを理解した時だけ活動を止めてマインドを静めることが可能となる - 分離を止めて、我々の原点〔ワンネス〕に入るのだ。
だが、我々の宗教は、『この宗教』、『あの宗教』であることによって、(排他を生じ)真の平和を妨げている。
まるで、象の異なる部分を観察する4人の盲人の物語のようだ。
1人は鼻、別の者は足、別の者は尻尾、別の者は背中、それで象を説明しようとする。
1人目が言う、「象は蛇のようだ。長くて太った蛇。」
「おい、友よ、そりゃ違うぞ」と、別の者が反論する。「象は、柱のようだ。厚くて堅い。」
「いや、いや、君達、二人とも違うよ!」と、3番目が応じる。
「象は、モジャモジャして幅広く、ほっそりと曲がっている。」
同一のものを説明しているという事実に気がついて、象の全貌を理解しようと後方に下がる者は、彼らの中に誰もいなかった。
*
宗教とはそのようなものだ。
彼らは同一のものに対して、特定の制限された視野を持つ。
そして人々は彼らに従う。真に解決することを望んではいないので。
彼らは、実践する代わりに、「これをしなさい、あれをしなさい」と言う権威に従うことを好む!
偉人を見てごらん。キリスト、ブッダ、モハメッド、モーゼ。
彼らは誰にも追従しなかった。
彼らはやるべきことを実際にやった。
それから彼らは、我々各自が同様にやる必要がある、と述べた。
*
自問してごらん。あなたが眠っている時、あなたはもはや男性でも女性でもなく、アフリカ人でもアメリカ人でもないのではなかろうか?
「キリスト教徒」であるか?「ヒンドゥー教徒」であるか?ということが重要だろうか?
そうではない、何故ならそれらは自我(エゴ)の創造である。
より高い精神状態において、自我は不在である。
キリスト教徒なのかヒンドゥー教徒なのか、男性なのか女性なのか等といったものは超越して内部の原点に留まる(最高点)。
物理的に死ぬ前に、この世で自発的に死ぬ必要がある。
あなたに統合が起こることを望むならば、「私」自我は死ななければならない。
純粋に、覆わず、剝き出しのままでなければならない。
衣装を纏わない、人格を演じないといった意味ではない。
キリストは言った。我々が天国に入るには、無邪気で偽り無く露な幼子のようであらねばならない。
けれども、自我は意見するだろう。「正しいのはブッダの哲学だ」、「正しいのはモハメッドの哲学だ」。
だが、彼らのものは個人的な哲学ではなかった。
それらは普遍的な唯一のものだったのだ。
彼らは自我の幻想を演じるのをやめて、普遍的な道へ入った。
キリストが正しかったのか、あるいはモハメッド、クリシュナ、ブッダ、ゾロアスターが正しかったのかと意見することは完全に要点から外れている。
要点に触れることに関して宗教があるはずなのだが!
だから、我々は世界中で絶え間なく争い、戦争をしている。
自我はそれらの個別の哲学と宗教をめぐって争っている(盲人と象の話を覚えてる?)。
偉人達は賞賛をうけるために教えたのでは決してない。
彼らと同様になること - ワンネスに入ること - これが彼らの教えだ。
彼らがどう生きたかということも教えの1つだ。
我々は同様にやる必要がある。でなければ、盲目の弟子となるだけだ。
夜中、何かを見て吠える犬がいる。
まもなくすると、何も見なかった多くの他の犬達も吠える。
経験をせずに、最初の犬の後に続く。
そのように、宗教というのは、何も見なかったのに吠える犬のようなもので、彼ら自身ではなく他者の経験に基づいて吠える。
そこには聖職者(僧侶)も含まれる!
「あなたは今、何が欲しいですか?」と彼らが尋ねられたならば、「私は平和が欲しい」と彼らも答える。
何故、彼ら自身がそれを持っていないのに、平和を得るために何をしなければならないかについて人々に語るのだろうか。
偽善者ども!
これは「盲人が盲人を導く」といわれるものだ。
いまだ、誰もが平和の実感から離れているに違いないか、その可能性に気付くことが出来ずにいる。
彼らは皆、探し求めている。
彼らは平和を求める。しかし彼らは平和が何であるかを理解せず、宗教、薬物、SEX、あるいは彼らが愛として信じるものとの関係を確立する。
でも、愛とは何だろう?
漠然であっても、それを経験した誰もが繋がり(関係)について語るだろう。
多数の者が、この繋がりを外面的にSEXを通して築こうとする(他者に同化しようと試みる)が、それでは不十分である。
肉体と肉体が衝突するに過ぎない - 彼らは1つになること(同化)が出来ない。
彼らが「私はこの人を愛している」という時、真に愛を理解していない。
「私」が愛する。それは自我の幻想だ。
愛とは2つが1つであるときだ。
愛とは統合だ。愛の中に「私」はいない。
真の繋がり(後の我々)とは至高のものとマインドが統合することである。
自分自身のハイアーセルフ、原点と合併することが個々の待ち望んでいるものである。
我々が神と呼ぶものと1つになるということだ。
この状態は涅槃、解脱、天国など、宗教によって異なる呼びかたがある。
「天国は内側にある」とキリストも言ったものだ。
それは外部にはない。
それは内部で達成される。
マインドは神の家に帰還するのだが、その家は我々自身がもといた場所だ。
平和(マインド活動の欠如)とは我々が探しているものだ。
我々はそこにある平和へ向かう必要がある。
この実習は「統合(結合)」という意味でヨーガと呼ばれる。
それは瞑想と呼ばれる。それは自己実現の道、救済の道である。
我々はそれを何とでも呼ぶことができるが、名付けられたものは『それ』そのものではない。
それは体験される必要がある!
体験して、それに従えばいい。
信じることは、未来の人生が条件にある:「あとになればわかるだろう」
ある人はこう言うかもしれない。「今、私は信じるのみ。」
そうではない! あなたがわかるのは自分で直に体験したことだけであり、あなたにとっての真実になることのみに従うべきだ。
信念とは暗闇の遺物だ。
それは盲目だ。
体験、認識が光だ。
あなたは今、わかっているか、わかっていないかのどっちかだ。
そして現在、我々が独創性に到達するために繋がる必要のある状態がある。
だが、まず最初に、我々はマインドを落とす必要がある。
Think for yourself 歌詞
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サダシヴァヨギ:著
第1章.平和 - 信じるのか、体験するのか?
あらゆる人が、性別、年齢、文化といったものに心理的に影響され互いに競い合うように日々を過ごしている。
何がしかの欠乏感を抱き、満たされることを切望しながら。
人生に何が欠けているのか、何を望んでいるのかと人々に尋ねてごらん。
すると、あらゆる種類の答えが彼らから返ってくることだろう。
立派な教養を身につけて、いい人生を送りたい。
うん、それから?
経済的に独立したい。
それから?
忠実なパートナーが欲しい。
それから?
子供を生んで家庭を持ちたい。
それから?
素敵な仲間、美味しい食事、快適さ、名声、安全。
それから?
それで私は幸せになれると思う。
それから?それから?それから?・・・・・平和。
平和。どういうわけか、いつもこれに行き着くのだ。
たとえどこから始めたにせよ、その人は最後に平和を求める。
他のどんなもの以上に我々が人生で本当に求めているように見えるのは平和である。
しかし、平和とはいったい何だろう?
誰もが最終的に求めるこの平和とは?
攪拌(継続的な活動)があるとしよう;
すると、攪拌、活動がない場合、平和が訪れる。
平和とは攪拌と活動がないときのマインド(心)の状態である。
では、活動とは何だろう?
我々の人生において継続的に活動して変化するものとは何だろうか?
感覚を遮断してみたとしよう、目を閉じて、耳に栓をする。
平和があるか?
そうではない、思考を繰り出し、動き続けるものがある。
それがマインドだ。
マインドを停止してその活動を止めてごらん、そうすれば平和が達成されるだろう。
それがオリジナルの位置(Brumadya〔2つの目眉の間の上のスペース〕)に戻る時だけ、マインドは自然に止まる。
従って、誰もが本当に望み、捜し求めているものはマインドの活動の停止である; その結果が平和である。
しかし、人が何を望むかについて尋ねるならば、彼らは弱々しく答えるかもしれない -「私が欲しいものは、この女性(男性)、または “あの宗教”、“あの理想”、 “あのライフスタイル” が欲しい。」
そのとき実際、それは彼らがいる彼らのオリジナルな中心点である。
そういうわけで、世界は欠乏に満ちているように見える;
本当に欲しいものが何なのかを我々が理解しないので。
そして、そう、我々は継続する活動から一時的に逃れるために四方八方に飛び出す - その状態に平和はない。
私達の人生は不正直に平和を探索している。
それでも、各人の内部には、それを越えて求めている何か(より深い静寂、平和)があることを確実に知っているには違いない。
我々がそれが存在するということを知らないならば、どうやってその何かを捜すことができるだろうか?
したがって、我々が求めているのは我々がそのポイントを知っているからである: いつかどこかで、我々は、このポイント、平和、活動の停止を経験したに違いない。
病気である人が健康を切望するようなものだ。
なぜって?彼らは、以前に感じていた健康について知っている - それが病気じゃないってことを!
健康が何であるかをまったく知らなければ、何かの病気を抱えて生まれても悩まずにいるだろう。
このように、人々は皆、彼らのオリジナル(原初)の状態である平和を知っている。しかし、彼らは忘れているのだ。
もしくは無視しているのか?
したがって、平和とは <このもの> から <あのもの> に、(この経験の感覚から、その経験の感覚へ)という活動の中止である。
平和とは、マインドがその創造的活動を止める時である。
したがって、全体の答え(そして、問題の原因)は、世界(外側)ではなく、我々(内側)にある。
それは外部のジレンマではない。
そして、満足感がない限り、平和を探し求めるあらゆる行為、SEX、薬物、宗教、社会的な理想、飾られた人生が平安の感覚を真にもたらすことはない - 常に、より多くを欲している。
それらは、一時的な平和の感覚を引き起こすかもしれないが、マインドが外部からの緩和(痛み止め)によって静まったのであって、彼ら自身は平穏ではない(平和の状態ではない)。
我々は、平和そのものの永久的な段階を追求する代わりに、それらが我々に(一時的な)平和をもたらすと見なしている。
*
ヒマラヤに暮らす或る猫についての物語がある。
その猫が汗をかくと、毛皮から芳香が放たれる。
ある日、突然に猫は自分自身の香りを嗅ぐに至った。
「ああ、どうしたことか」と呟いた、「なんて素晴らしい香りなんだ!この美しい香りの源を見つけなくては。」
そういって探し始めた。
香りの源を探そうと猫が早足で歩き始めると共に汗もより多く流れる。
よりいっそうの香りが放たれた。
「よし、いいぞ。香りがはっきりしてきた。かなり接近しているに違いない。」
そして、ますます動きを速めた。
さらに汗をかき、さらに香りが強まった。
「よぉし、香りが強烈になってきた。香りの源はかなり近いはずだ。」
そうして、猫はさらに動きを速めた。
しかし、猫は疲れきって、探すのを止めて木の根元で休まざるを得なくなった。
熱心に探し求めていた芳香の源を知ることなく、極度の疲労によって息絶えた。
もし、いったん立ち止まって自分自身の匂いを嗅いでいたとしたら。
そのように我々は我々自身の人生を演じている。
もし我々が自分自身を正直に分析するならば、内側を欺いて外側に追い求めているとわかるだろう。
すべての偽りが我々の内側にある。
性の影響は内側で起こっている;
薬の影響は内側で起こっている;
私たちの安心、静穏、愛の感覚 - それらすべては内側で起こる。
我々は、他人に起こる特定のうわべの出来事を誤解することによって、実際に活動と攪拌を増加させる。
『男性』においてさえ、『女性』も彼の内側にいる。
二元性によって外見と反対の反応(女性の精神)が引き起こされるとしても、活動が生じて本来の状態(実際は男性であり女性である)から切り離そうとする。
性別が我々の内部で生じているのは我々が理解する物理的な性別の制定によるものである - 相反する極性(男性と女性)は外部ではなく、内部で統合する。
2つに割った種子が2等分されたものであるように -
我々は元来、完全な種子である。
現在、我々は、自分たちが種子の半分でしかないと信じ、完全性を探し求める生活を送っている。
我々は無意識のうちに(気がつかずに)実在を否定している。
それは我々が五感を通じて探し求めている自己と同一の完全性である。
*
キリスト教の物語(失楽園に関する)は、神の他に単体の生物がいたと述べている。
男性であるには女性への依存が不可欠であろうから、それはおそらく『男性ではありえなかった』 - 唯一の生物がいた。
しかし、神を否定することによって、それは2つに分割され、すべてが楽園だった庭から隔てられたのであった。
現在、一方は分割したもう一方(補足し合うもの)を捜して走り回っている。
(キリスト教に限らず、)あらゆる宗教についても同様である。
我々は仏教、ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教、その他多くの別々の社会制度を生みだした。
彼らは核心として同じこと(慈悲、平等、正直)を述べているのではあるが。
しかし、これらの宗教の聖職者、リーダーは、「これをしなさい」、「あれをしなさい」と我々に命じる。
また、彼らは偉人の名前を連呼する。
けれども、彼ら自身は説教の内容を実践していないのだ。
「これをしなさい」、「あれをしなさい」とは言わなかったであろう偉人の名を借りて彼らは宗教を構築した。
だが、それを実践している者がいるだろうか。
彼ら(偉人)は、活動を止めて、独りで1点にじっとして、感覚の刺激を避けて、原点(完全性)に戻ることによって彼らの生を変容させた。
彼らは神から分離していることをやめた。
そうして、彼らは言った「私は道だ」、「私のあとに続きなさい」、「私がそうしたように。」
それにもかかわらず、我々の宗教では彼らの言ったことに耳を傾けていない(真意を汲み取ることが出来ずにいる)。
我々は彼らに従っていない。我々は彼らがしたようにやっていない。
我々は自身に問うべきである。
ブッダに追従すると主張する何百万の仏教徒がいるというのに、なぜ、新しいブッダがいないのだろうか?
指標を思い出すことだ。
「あなた達全員がブッダなのだ」とブッダは言った。
なぜ、我々はそれを無視し続けるのだろう?
なぜ、仏教の体系は新しいブッダをちっとも輩出しないのだろう?
なぜ、何百万のクリスチャンがいて、キリストのような人がいないのか?
なぜなら、人々はキリスト教を「している」から。彼らは、教師の名のもとにそれ自体を促進する宗教団体に従う。
彼らは教師自身には追従していない。
ブッダやキリスト(あるいは他の偉大な教師)に真に追従するためには(つまり、彼らが成したように成すことで彼らのように成るために)、活動を終焉し、我々が宗教用語で神と呼ぶ原点と融合することである。
そして、それには分割した極性が融合して1つになることがポイントである。
キリストはこのように言った。「私の父と私は1つである。」
ある男が、最愛の人、キリストの家を訪ね、ドアをノックした。
「どなたかな?」と内側から尋ねる声がした。
「私です」と男が返事をした。
「すまんが、わしと汝のための居場所は内側にない。」
さて、男は立ち去って、その状況、彼の存在と現実について沈思熟考した。
しばらくして、彼は最愛の人の家に戻り、再びドアをノックした。
「どなたかな?」 先程と同じ問いかけがあった。
「汝なり」
すると、ドアが開かれた。
我々の分離の原因は、二元性に根付いた極から極への継続的な活動の結果であることを理解した時だけ活動を止めてマインドを静めることが可能となる - 分離を止めて、我々の原点〔ワンネス〕に入るのだ。
だが、我々の宗教は、『この宗教』、『あの宗教』であることによって、(排他を生じ)真の平和を妨げている。
まるで、象の異なる部分を観察する4人の盲人の物語のようだ。
1人は鼻、別の者は足、別の者は尻尾、別の者は背中、それで象を説明しようとする。
1人目が言う、「象は蛇のようだ。長くて太った蛇。」
「おい、友よ、そりゃ違うぞ」と、別の者が反論する。「象は、柱のようだ。厚くて堅い。」
「いや、いや、君達、二人とも違うよ!」と、3番目が応じる。
「象は、モジャモジャして幅広く、ほっそりと曲がっている。」
同一のものを説明しているという事実に気がついて、象の全貌を理解しようと後方に下がる者は、彼らの中に誰もいなかった。
*
宗教とはそのようなものだ。
彼らは同一のものに対して、特定の制限された視野を持つ。
そして人々は彼らに従う。真に解決することを望んではいないので。
彼らは、実践する代わりに、「これをしなさい、あれをしなさい」と言う権威に従うことを好む!
偉人を見てごらん。キリスト、ブッダ、モハメッド、モーゼ。
彼らは誰にも追従しなかった。
彼らはやるべきことを実際にやった。
それから彼らは、我々各自が同様にやる必要がある、と述べた。
*
自問してごらん。あなたが眠っている時、あなたはもはや男性でも女性でもなく、アフリカ人でもアメリカ人でもないのではなかろうか?
「キリスト教徒」であるか?「ヒンドゥー教徒」であるか?ということが重要だろうか?
そうではない、何故ならそれらは自我(エゴ)の創造である。
より高い精神状態において、自我は不在である。
キリスト教徒なのかヒンドゥー教徒なのか、男性なのか女性なのか等といったものは超越して内部の原点に留まる(最高点)。
物理的に死ぬ前に、この世で自発的に死ぬ必要がある。
あなたに統合が起こることを望むならば、「私」自我は死ななければならない。
純粋に、覆わず、剝き出しのままでなければならない。
衣装を纏わない、人格を演じないといった意味ではない。
キリストは言った。我々が天国に入るには、無邪気で偽り無く露な幼子のようであらねばならない。
けれども、自我は意見するだろう。「正しいのはブッダの哲学だ」、「正しいのはモハメッドの哲学だ」。
だが、彼らのものは個人的な哲学ではなかった。
それらは普遍的な唯一のものだったのだ。
彼らは自我の幻想を演じるのをやめて、普遍的な道へ入った。
キリストが正しかったのか、あるいはモハメッド、クリシュナ、ブッダ、ゾロアスターが正しかったのかと意見することは完全に要点から外れている。
要点に触れることに関して宗教があるはずなのだが!
だから、我々は世界中で絶え間なく争い、戦争をしている。
自我はそれらの個別の哲学と宗教をめぐって争っている(盲人と象の話を覚えてる?)。
偉人達は賞賛をうけるために教えたのでは決してない。
彼らと同様になること - ワンネスに入ること - これが彼らの教えだ。
彼らがどう生きたかということも教えの1つだ。
我々は同様にやる必要がある。でなければ、盲目の弟子となるだけだ。
夜中、何かを見て吠える犬がいる。
まもなくすると、何も見なかった多くの他の犬達も吠える。
経験をせずに、最初の犬の後に続く。
そのように、宗教というのは、何も見なかったのに吠える犬のようなもので、彼ら自身ではなく他者の経験に基づいて吠える。
そこには聖職者(僧侶)も含まれる!
「あなたは今、何が欲しいですか?」と彼らが尋ねられたならば、「私は平和が欲しい」と彼らも答える。
何故、彼ら自身がそれを持っていないのに、平和を得るために何をしなければならないかについて人々に語るのだろうか。
偽善者ども!
これは「盲人が盲人を導く」といわれるものだ。
いまだ、誰もが平和の実感から離れているに違いないか、その可能性に気付くことが出来ずにいる。
彼らは皆、探し求めている。
彼らは平和を求める。しかし彼らは平和が何であるかを理解せず、宗教、薬物、SEX、あるいは彼らが愛として信じるものとの関係を確立する。
でも、愛とは何だろう?
漠然であっても、それを経験した誰もが繋がり(関係)について語るだろう。
多数の者が、この繋がりを外面的にSEXを通して築こうとする(他者に同化しようと試みる)が、それでは不十分である。
肉体と肉体が衝突するに過ぎない - 彼らは1つになること(同化)が出来ない。
彼らが「私はこの人を愛している」という時、真に愛を理解していない。
「私」が愛する。それは自我の幻想だ。
愛とは2つが1つであるときだ。
愛とは統合だ。愛の中に「私」はいない。
真の繋がり(後の我々)とは至高のものとマインドが統合することである。
自分自身のハイアーセルフ、原点と合併することが個々の待ち望んでいるものである。
我々が神と呼ぶものと1つになるということだ。
この状態は涅槃、解脱、天国など、宗教によって異なる呼びかたがある。
「天国は内側にある」とキリストも言ったものだ。
それは外部にはない。
それは内部で達成される。
マインドは神の家に帰還するのだが、その家は我々自身がもといた場所だ。
平和(マインド活動の欠如)とは我々が探しているものだ。
我々はそこにある平和へ向かう必要がある。
この実習は「統合(結合)」という意味でヨーガと呼ばれる。
それは瞑想と呼ばれる。それは自己実現の道、救済の道である。
我々はそれを何とでも呼ぶことができるが、名付けられたものは『それ』そのものではない。
それは体験される必要がある!
体験して、それに従えばいい。
信じることは、未来の人生が条件にある:「あとになればわかるだろう」
ある人はこう言うかもしれない。「今、私は信じるのみ。」
そうではない! あなたがわかるのは自分で直に体験したことだけであり、あなたにとっての真実になることのみに従うべきだ。
信念とは暗闇の遺物だ。
それは盲目だ。
体験、認識が光だ。
あなたは今、わかっているか、わかっていないかのどっちかだ。
そして現在、我々が独創性に到達するために繋がる必要のある状態がある。
だが、まず最初に、我々はマインドを落とす必要がある。
Think for yourself 歌詞
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精神世界(スピリチュアル)には数多くのトラップが存在しています。私も懲りずに何度もひっかかりました。安易に鵜呑みにせず、自分自身で調べる、考える、見極めることが大切なんだと思います。経験してみないことにはわからないこともありますが、情報を知ることで罠を回避できることも十分にあると考えられます。
国内だけでは情報が限られるので海外にも目を向けています。
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