カルキのディクシャ WHO IS THAT?
インド聖者カルキバガヴァンとワンネスムーヴメント。
その知られざる実態に迫る。
ワンネス劇場の舞台裏で何が起こっていたのか!?
その他、悟り系の情報を紹介。玉石混交のスピリチュアル、玉にみせかけた石にはご用心。
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前回の記事で登場したサドグル・ジャッギー・ヴァースデーヴ(イーシャ財団の創始者)が、彼自身の人生を語っている動画がありました。
訳はあやふやな箇所もあったので微妙です(いつものことか)。
私の翻訳能力が向上するには時間がかかりそうなので、ツールの飛躍的向上が望まれます。
動画にそのまま組み込めば見やすくていいのですが、それはこの種の動画を紹介することに関心が高く、かつ翻訳に自信のある方がされることだと思います。
彼が真正のグル(導師)であるのかどうかはさておき、こうしたストーリーには興味深いものがあります。
彼が言うように、それ(悟り)はすべての人に可能性があるのでしょうが、はたしてすべての人に必要なのかどうかについてはわかりません。
訳はあやふやな箇所もあったので微妙です(いつものことか)。
私の翻訳能力が向上するには時間がかかりそうなので、ツールの飛躍的向上が望まれます。
動画にそのまま組み込めば見やすくていいのですが、それはこの種の動画を紹介することに関心が高く、かつ翻訳に自信のある方がされることだと思います。
彼が真正のグル(導師)であるのかどうかはさておき、こうしたストーリーには興味深いものがあります。
彼が言うように、それ(悟り)はすべての人に可能性があるのでしょうが、はたしてすべての人に必要なのかどうかについてはわかりません。
sadhguru's enlightenment... in his own words
Chamundi Hill
チャムンディの丘
One afternoon, I just went and sat on a small hill which was in a town where I grew up.
ある日の午後、私は、生まれ故郷にある小高い丘の上にただ座っていた。
ある日の午後、私は、生まれ故郷にある小高い丘の上にただ座っていた。
Until that moment I always thought this was me and that's somebody else. I had no issue with that somebody else but that is somebody, this is me. For the first time I did not know which is me and which is not me. What was me was just spread all over the place.
その瞬間まで、私はこれが「私」で、あとの皆は他人だと思っていた。私は他の誰とも問題はなかったが、自他があった。その時に初めて、私は、「私」がどこにいるのかがわからなかった。「私」はいなかった。「私」は至る所に拡がっていた。
I thought this madness lasted for five or ten minutes but when I came back to my normal ways of being four-and-a-half hours had passed.
この狂気の沙汰が持続したのは5~10分間と思ったが、私が通常の状態に戻ったときに4時間半が経過していた。
I'm sitting right there, fully conscious, eyes open.
私は目を開けて、完全に醒めた状態で、そこに座っていた。
I sat there around three o'clock in the afternoon, it's seven thirty in the evening, sun has set and I thought it's only ten minutes but four and a half hours had passed.
私は午後3時頃にそこに座った。日が暮れて、午後7時半になっていた。10分しか経っていないと思ったが4時間半が経過していたのだ。
For the first time in my adult life tears are flowing to a point where my shirt is completely wet.
その時、私はシャツがびしょ濡れになるほど涙を流していた。大人になってから初めてのことだ。
Me and tears were impossible, I am like this.
私は涙とは無縁だった。
I've always been happy, that's never been an issue for me.
私にとって全く問題はなかった、私はいつも幸せだった。
I was successful with what I was doing.
私は自分がすることに成功していた。
I was young and no problems... I was fine.
私は若かったし、何も問題はなかった・・・私は満足だった。
But I'm bursting with another kind of ecstasy which is indescribable, every cell in my body is just bursting with ecstasy.
しかし、私は筆舌に尽くし難いある種の恍惚感に溢れていた、身体のあらゆる細胞が恍惚感ではち切れんばかりだった。
I had no words, when I shock my head and tried to ask my skeptical mind okay what's happening to me.
私の頭(理性)は動揺し、言葉を失い、私に何が起こっているのか懐疑心を行使させた。
The only thing that my mind could tell me was maybe you are going off your rocker.(audience lauter)
私のマインドが私に伝えられる唯一のものは、「おまえのオツムはいかれちまったんだろうよ」であった。(聴衆、笑)
I didn't care what it was but I didn't want to lose it because this is the most beautiful thing that I had ever touched and I had never imagined that a human being could ever feel like this within himself.
私は、それは何であるかは気にかけなかったが、私がかつて接触した中で最も素晴らしいものだったので、それを失いたくなかった。 人間が自分の内側にこのようなかつてない感覚を抱けるということを私は想像したことがなかった。
So when I went to my closest friends and said see something is happening to me like this as I'm talking tears would flow and...
私は親友を訪ねると、「見てくれよ、俺どうにかしちまったんだ」と涙を流しながら話した。
people would say, “Did you drink something? Did you pop something? What did you do?”
人々は言う 「一杯ひっかけたのかい? 何か変なもんでも口にしたのか? 何したんだ?」
I knew there was no point in talking to anybody because If I just look at the sky, tears will come, If I look at a tree, tears will come, If I close my eyes, tears will come.
誰に話したところで意味がないのはわかっていた。私が空を見上げれば涙が溢れる、木を見れば涙が溢れる、目を閉じれば涙が零れ落ちるのだから。
I'm just bursting. In six week time everything about me changed so dramatically and I just lost the sense of time.
私は決壊した。6週間のうちに、私のすべては本当に劇的に変わり、私は時間の感覚を失った。
The next time this happened was very significant because there were people around me, I went and set with my family at the dinner table,
この次に、非常に意味ありげなことが起きた。というのも私の周囲に人々がいた。私は家族と一緒に食卓を囲んでいた。
I actually thought it's two minutes, but seven hours had gone by, I'm sitting right there fully alert but I have no sense of time.
私は完全に醒めた状態でそこに座っていたのだが、時間の感覚がなかった。私は、2分しか経っていないと思ったのだが、実際は7時間が経過していた。
This happened many times, one day I'm just sitting in my farm and I thought I sat there for about twenty five, thirty minutes, but I have sat there for thirteen days.
これは何度も起こった。ある日、私は自分の農場で座っていた。私がそこに座っていたのは25~30分位と思ったのだが、13日間が経過していたのだ。
By then a crowd has gathered, India being What it is, there are huge garlands all around me and somebody's asking how to run his business, somebody wants to know when his daughters will get married.
それまでに、群衆が集まっていた。インドにはそうしたことがある。私の周囲一面に花輪が置かれていた。ある者は「ビジネスの運営法」について質問してきた。
またある者は「娘がいつ結婚できるか知りたい」と。
またある者は「娘がいつ結婚できるか知りたい」と。
All then nonsense I hated just happening around me and... I actually thought it's only twenty five, thirty minutes but these people saying thirteen days, he's sitting, he's in samadhi he's this.
私の周りに起こっているこれら全てのことが、くだらなくて嫌になった・・・
私の実感では25~30分だったが、これらの人々は「彼は13日間、座っていた。彼はサマディ(三昧)に入っていた。」と言うのだった。
私の実感では25~30分だったが、これらの人々は「彼は13日間、座っていた。彼はサマディ(三昧)に入っていた。」と言うのだった。
I had not even heared these words.
私はこうした言葉を耳にしたことさえなかった。
I grew up on... you know European philosophy, Kamel, Kafka, Dustkowsky, you read that stuff? ...in America? ...hur?
私はヨーロッパの哲学を読んで育った・・・カメル、カフカ、ドストエフスキー。あなたがたはそれらを読むだろうか?
and being sixties you know...Beatles and this and that, I grew up like that.
それと、あなたがたも知っている60年代の存在・・・ビートルズなどを聞いて私は育った。
Me and spirituality are another world, there's no chance of me going there.
私には、スピリチュアリティーは別世界で無縁のものだった。
So I had none of these vocabularies, samadhi this, that stuff in me...
だから私は、サマディというこの言葉、こうした用語は少しも知らなかった・・・
People are saying oh he's in this kind of samadhi, he's in that kind of samadhi, you touch him and this will happen and people are trying to grab me.
人々は「彼はこの種のサマディにいる、彼はあの種のサマディにいる、あなたが彼に触れるとこれが起こるだろう」と言って、私をつかもうとする。
So the only thing that I could do is leave that place and travel out just to escape this because I couldn't figure what's happening around me.
したがって、私にできた唯一のことは、その場所を去ることだった。私の周囲で何が起こっているか理解できなかったので、これを回避するために旅に出た。
Why I'm telling you this story is, this is possible for every human being, it's my wish and my blessing. This must happen to you.
なぜ私があなたにこの話を伝えているかといえば、これはすべての人間にとって可能であるからだ。それは私の願いであり、祝福である。
これはあなたの身に起こるに違いない。
Whether you climb Mount Everest or not, Whether you become the richest man on this planet or not, your experience of life on this planet should be pleasant.
あなたがこの惑星でエベレストに登るかどうか、金持になるかどうかに関わらず、この地球上の人生経験は楽しいものであるはず。
You must live blissfully and go, that must happen to every human being, everybody deserves it and everybody's capable of it.
あなたはこの上なく幸福に生きるに違いない。それはすべての人間に起こるに違いない、誰もがそれに値するし、その可能性がある。
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今回は那智氏の「悟り系で行こう」からの一部を抜粋紹介させていただきます。氏が言うところの精神世界の玉石混合でいえば玉といえるであろう稀有な1冊です。
ディクシャなど精神世界の甘い言葉に誘われ、罠に落ちた(そして抜けた)経験をお持ちの人であれば、しっくりくるものと思われます。私自身の経験からいっても、悟りビジネスに引っ掛かる要因には自分が無知であること、実際は悟りを求めているのではなく「私」が大きくなりたい、現実逃避であることがあげられます。
◎悟り、ワンネス=神秘体験、脳内麻薬による恍惚状態(麻薬による誘発を含む)
◎悟りのプロセス=自我肥大化過程(悟りとは真逆であり、プライドが高くなり、肩書きを増やす傾向あり)
◎恩寵=ニンジン効果
=========
「悟り系で行こう」
那智タケシ:著
明窓出版
P.99 第二章より抜粋
『 ・・・残念ながら、悟りに至る決まり切った道というものはないのです。
呼吸法をしようが、呪文を唱えようが、苦行をしようが、瞑想をしようが、それは悟りとは関係ありません。
悟りのプログラムがあるとしたら、ゴールにあるのは悟りではなく、「こうありたい自分」に過ぎないことでしょう。
もちろん、悟ったら終わりというものではありません。
悟りの認識を得た後にこそ、拡大し、深まる世界というものが確かにあります。
エゴの浄化による「空」の実現もまた然りです。
むしろ、悟った後にこそ、創造的な生のあり方が試されることでしょう。
しかしそれは、「悟り養成コース」でもって達成されるものではなく、山登りの道を歩くものでもなく、個々人の独自な運命の中にのみ開示されるものだと思います。
悟りは、決して定型化されるものではなく、その世界に入った後にこそ、個人の天才性という自由の中で成長してゆくものなのです。そこには決まり切った道などないのです。 』 後略
P.102~106 ★精神世界の危険性について
『 今、大手の書店に行けば「精神世界」なるコーナーがあるはずです。あるいは「スピリチュアル」という言葉で1つのジャンルになっているのかもしれません。そこにある書籍は、似非宗教的な神の言葉から、占いやオカルト、超能力、前世療法、チャネリング、UFO、ヒーリング等々、こうしたジャンルに興味のない人から見ると、「うさんくさい」の一言で済ましてしまえるような内容のタイトルがつけられた書籍が、ずらりと並んでいます(本著もその1つに違いありませんが)。
私は別段、チャネリングだとか、前世だとかが嘘であるとか、詐欺であるとか批判したいわけではありません。そのほとんどがガラクタのような代物であることは知っていますが、玉石混交という言葉もありますし、中には何らかの意味を持つものもあるのでしょう。実際、特殊な能力を持つ方もいらっしゃるようです。けれども、私が言いたいのは、チャネリングであれ、神からの言葉であれ、守護霊からのメッセージであれ、すべては「私」という厄介な中核を消滅させる作業なしには、「私」逃避、現実逃避の娯楽になりかねないということです。
自分より高次の存在からのメッセージを受け取る、ということは、結局のところ分裂の世界です。二元論です。世界から分離して真実を理解していない、小さな「私」に、より大きな存在、聖なる存在が「正しさ」を教えてくれるということです。仮にそのような大きな存在があったとしても、人がその大きなものと小さなものという構図に安住している限り、決して悟りの世界に入ることはできません。なぜなら、悟りとは「私」が幻想であり、「世界」そのものであることを知ることだからです。
もしも、自分がそのものであることに気づけば、未熟な自己に何か大事なことを教えてくれる偉大な何ものかは必要ないのです。
もちろん、人生のある時期において、人を救い、導くような神秘体験現象もあるのかもしれません、優れた教師も現れることでしょう。ただしそれは、いずれ乗り越えなくてはいけない存在なのです。
なぜなら、一人の人間よりも大きなものなど何もないからです。
一人の人間というのは、本質的な意味において世界そのものです。彼は、自分より大きなものを持つ必要はないし、持ち得ないのです。
なぜなら、あなたは「世界」なのですから。あなたを導く神聖な存在も、「私」を破壊した時、あなた自身となるのです。
中には、聖なるメッセージによって救われた、という人もいるでしょう。私は神のメッセージによって、幸福になった、あなたもこのメッセージを受け取りなさい、というわけです。しかし、こうした人々には一つの特徴があります。彼らは、どんなに幸福そうに微笑んでいても、その微笑みには厳しさがないのです。微笑みの裏側に、あるいは中心に、過保護にされた「私」が残っているのです。「私は神の言葉を聞いて(信じて)救われた」という人がインタビューを受けている写真をみたことがありますが、その微笑の何と甘たるいこと! 私は一目見て、「ああ、この人は自分(「私」)というものを殺していないな」と感じました。「私」というものを一度破壊した人は、決してこのような甘たるい、自己満足の微笑を浮かべません。
人は、「あなたはそのままでいいんだよ、救われているんだよ」という自分にとって都合の良い教えを好みます。しかし、「私」肯定のメッセージは、どんなに心地よいものであっても、人間というものを本質的に救うことはないのです(非常に残念なことですが)。むしろそのような誤ったメッセージは、「私」を大事に保存したまま、人に「救われた」という錯覚をもたらしてしまうことにおいて、邪悪なものでさえあると思います。
どんなに「世界平和」や「祈り」や「愛」を説いていたとしても、その中心に「私」がある限り、すべては「私」の自己満足で終わってしまうのです。
人は、他人の立派で美しいメッセージを信じる前に、自分自身の醜さを直視する勇気を持たなくてはならないのです。
また、こうした業界には、求道者と言われるような人々がいます。瞑想のセミナーに出かけたり、禁欲の修行をしたり、果てはインドにグル(精神的指導者)を求めて旅立ったり、たいへんな時間とお金をかけて、真実というものを探し求めています。
けれども、もしもその真実が「今」、「ここ」にあるとしたらどうでしょう?
彼らは「私」の外に真実を求め、インドまで聖人を求めて旅立つのかもしれませんが、そのようなことをすればするほど、「私」という、今、ここにある真実から遠ざかっているかもしれないのです。
悟りは、様々な本を読んだり、セミナーに出かけたり、聖人に会いに行ったりして得るものではありません。むしろそのような活動をすればするほど、真実を求める「私」が強く、大きくなり、取り返しのつかないまでに硬直化してしまうかもしれないのです。
というわけで「精神世界」なるものに入り込むことは、極めて危険な道なのです。私たちは「精神世界」に入り込むのではなく、「私」自身の中に入り込むべきです。それはインドに行くことよりもはるかに困難で、はるかに豊かな意味を持つ行為なのです。
真実は、他人の言葉や外国にあるのではなく、私たち自身の中にあるのです。』
ディクシャなど精神世界の甘い言葉に誘われ、罠に落ちた(そして抜けた)経験をお持ちの人であれば、しっくりくるものと思われます。私自身の経験からいっても、悟りビジネスに引っ掛かる要因には自分が無知であること、実際は悟りを求めているのではなく「私」が大きくなりたい、現実逃避であることがあげられます。
◎悟り、ワンネス=神秘体験、脳内麻薬による恍惚状態(麻薬による誘発を含む)
◎悟りのプロセス=自我肥大化過程(悟りとは真逆であり、プライドが高くなり、肩書きを増やす傾向あり)
◎恩寵=ニンジン効果
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「悟り系で行こう」
那智タケシ:著
明窓出版
P.99 第二章より抜粋
『 ・・・残念ながら、悟りに至る決まり切った道というものはないのです。
呼吸法をしようが、呪文を唱えようが、苦行をしようが、瞑想をしようが、それは悟りとは関係ありません。
悟りのプログラムがあるとしたら、ゴールにあるのは悟りではなく、「こうありたい自分」に過ぎないことでしょう。
もちろん、悟ったら終わりというものではありません。
悟りの認識を得た後にこそ、拡大し、深まる世界というものが確かにあります。
エゴの浄化による「空」の実現もまた然りです。
むしろ、悟った後にこそ、創造的な生のあり方が試されることでしょう。
しかしそれは、「悟り養成コース」でもって達成されるものではなく、山登りの道を歩くものでもなく、個々人の独自な運命の中にのみ開示されるものだと思います。
悟りは、決して定型化されるものではなく、その世界に入った後にこそ、個人の天才性という自由の中で成長してゆくものなのです。そこには決まり切った道などないのです。 』 後略
P.102~106 ★精神世界の危険性について
『 今、大手の書店に行けば「精神世界」なるコーナーがあるはずです。あるいは「スピリチュアル」という言葉で1つのジャンルになっているのかもしれません。そこにある書籍は、似非宗教的な神の言葉から、占いやオカルト、超能力、前世療法、チャネリング、UFO、ヒーリング等々、こうしたジャンルに興味のない人から見ると、「うさんくさい」の一言で済ましてしまえるような内容のタイトルがつけられた書籍が、ずらりと並んでいます(本著もその1つに違いありませんが)。
私は別段、チャネリングだとか、前世だとかが嘘であるとか、詐欺であるとか批判したいわけではありません。そのほとんどがガラクタのような代物であることは知っていますが、玉石混交という言葉もありますし、中には何らかの意味を持つものもあるのでしょう。実際、特殊な能力を持つ方もいらっしゃるようです。けれども、私が言いたいのは、チャネリングであれ、神からの言葉であれ、守護霊からのメッセージであれ、すべては「私」という厄介な中核を消滅させる作業なしには、「私」逃避、現実逃避の娯楽になりかねないということです。
自分より高次の存在からのメッセージを受け取る、ということは、結局のところ分裂の世界です。二元論です。世界から分離して真実を理解していない、小さな「私」に、より大きな存在、聖なる存在が「正しさ」を教えてくれるということです。仮にそのような大きな存在があったとしても、人がその大きなものと小さなものという構図に安住している限り、決して悟りの世界に入ることはできません。なぜなら、悟りとは「私」が幻想であり、「世界」そのものであることを知ることだからです。
もしも、自分がそのものであることに気づけば、未熟な自己に何か大事なことを教えてくれる偉大な何ものかは必要ないのです。
もちろん、人生のある時期において、人を救い、導くような神秘体験現象もあるのかもしれません、優れた教師も現れることでしょう。ただしそれは、いずれ乗り越えなくてはいけない存在なのです。
なぜなら、一人の人間よりも大きなものなど何もないからです。
一人の人間というのは、本質的な意味において世界そのものです。彼は、自分より大きなものを持つ必要はないし、持ち得ないのです。
なぜなら、あなたは「世界」なのですから。あなたを導く神聖な存在も、「私」を破壊した時、あなた自身となるのです。
中には、聖なるメッセージによって救われた、という人もいるでしょう。私は神のメッセージによって、幸福になった、あなたもこのメッセージを受け取りなさい、というわけです。しかし、こうした人々には一つの特徴があります。彼らは、どんなに幸福そうに微笑んでいても、その微笑みには厳しさがないのです。微笑みの裏側に、あるいは中心に、過保護にされた「私」が残っているのです。「私は神の言葉を聞いて(信じて)救われた」という人がインタビューを受けている写真をみたことがありますが、その微笑の何と甘たるいこと! 私は一目見て、「ああ、この人は自分(「私」)というものを殺していないな」と感じました。「私」というものを一度破壊した人は、決してこのような甘たるい、自己満足の微笑を浮かべません。
人は、「あなたはそのままでいいんだよ、救われているんだよ」という自分にとって都合の良い教えを好みます。しかし、「私」肯定のメッセージは、どんなに心地よいものであっても、人間というものを本質的に救うことはないのです(非常に残念なことですが)。むしろそのような誤ったメッセージは、「私」を大事に保存したまま、人に「救われた」という錯覚をもたらしてしまうことにおいて、邪悪なものでさえあると思います。
どんなに「世界平和」や「祈り」や「愛」を説いていたとしても、その中心に「私」がある限り、すべては「私」の自己満足で終わってしまうのです。
人は、他人の立派で美しいメッセージを信じる前に、自分自身の醜さを直視する勇気を持たなくてはならないのです。
また、こうした業界には、求道者と言われるような人々がいます。瞑想のセミナーに出かけたり、禁欲の修行をしたり、果てはインドにグル(精神的指導者)を求めて旅立ったり、たいへんな時間とお金をかけて、真実というものを探し求めています。
けれども、もしもその真実が「今」、「ここ」にあるとしたらどうでしょう?
彼らは「私」の外に真実を求め、インドまで聖人を求めて旅立つのかもしれませんが、そのようなことをすればするほど、「私」という、今、ここにある真実から遠ざかっているかもしれないのです。
悟りは、様々な本を読んだり、セミナーに出かけたり、聖人に会いに行ったりして得るものではありません。むしろそのような活動をすればするほど、真実を求める「私」が強く、大きくなり、取り返しのつかないまでに硬直化してしまうかもしれないのです。
というわけで「精神世界」なるものに入り込むことは、極めて危険な道なのです。私たちは「精神世界」に入り込むのではなく、「私」自身の中に入り込むべきです。それはインドに行くことよりもはるかに困難で、はるかに豊かな意味を持つ行為なのです。
真実は、他人の言葉や外国にあるのではなく、私たち自身の中にあるのです。』
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精神世界(スピリチュアル)には数多くのトラップが存在しています。私も懲りずに何度もひっかかりました。安易に鵜呑みにせず、自分自身で調べる、考える、見極めることが大切なんだと思います。経験してみないことにはわからないこともありますが、情報を知ることで罠を回避できることも十分にあると考えられます。
国内だけでは情報が限られるので海外にも目を向けています。
国内だけでは情報が限られるので海外にも目を向けています。
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