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その知られざる実態に迫る。
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ノンデュアリティ・マガジンからスワミ・クリシュナナンダの文章を転載します(今回は英文を省略とします)。スピリット(Spirit)と神(God)の語を使い分けているところもありますが同義とみてもよさそうです。ただ、神という言葉には様々な宗教的なイメージがつきものですから、馴染みの薄い言葉のスピリットに置き換えることは人によっては受け取りやすいと思います。Spiritを霊魂、精神と訳すのはそぐわない感じがしたので、そのままスピリットとしました。この文章の翻訳は手をつけてから一時中断していましたが、一応終わらせることが出来ました。おそらく一般的なクリスチャンの方が読めば異端に思う内容なんだろうと思います。
クリスマスシーズンにはキリストに思いを馳せるのも悪くないですが、キリスト意識について熟考してみるのもいいでしょう。
最近、翻訳に余り気が向かなくなりつつあるので、更新も少ない傾向にありますが宜しくお願いします。
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http://www.nondualitymagazine.org/nonduality_magazine.1.chrsitconsciusness.htm
「キリスト意識」
by スリ・スワミ・クリシュナナンダ
クリスマスシーズンにはキリストに思いを馳せるのも悪くないですが、キリスト意識について熟考してみるのもいいでしょう。
最近、翻訳に余り気が向かなくなりつつあるので、更新も少ない傾向にありますが宜しくお願いします。
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http://www.nondualitymagazine.org/nonduality_magazine.1.chrsitconsciusness.htm
「キリスト意識」
by スリ・スワミ・クリシュナナンダ
「汝自身を空っぽにしなさい。そうすれば、私は汝を満たすでしょう。」
これはイエス・キリストの驚くべき短文のメッセージです。 スピリット(Spirit)は量ではありません。それはすべての量的な測定・概念とは反対です。 「スピリットの中で貧しい人々は祝福されています」はキリストの別の暗示に富む声明です。
これはイエス・キリストの驚くべき短文のメッセージです。 スピリット(Spirit)は量ではありません。それはすべての量的な測定・概念とは反対です。 「スピリットの中で貧しい人々は祝福されています」はキリストの別の暗示に富む声明です。
私達は貧しいことが何を意味するかを理解できません。 私達にとって貧しいことはお金、食料、土地、家、友人を持っていないこと、そして社会で認められないことです。 それは経済的な貧困でしょう。 経済的、物質的、社会的な意味以外で、私達は貧しさを考えることができません。
同様に、私達のマインドが理解できる範囲では、自らを空っぽにするというアイデアは身体の中身の移動です。 これは、上記の単文のメッセージに含まれているスピリットのアイデアからかけ離れています。キリストの人格ではなく、キリスト意識がこの声明の理解で考慮に入れられるべきです。
キリストとキリスト意識の間には違いがあります。 この事実はキリスト自身によって繰り返し強調されていたことが新約聖書の中で彼の宣言として記録されています。 彼は自分自身を決して人と見なしませんでした。彼が話をしたとき、人が話していたということを示したこともありませんでした。
彼はいつも「私を遣わした彼(父)」に言及しました。 彼は「私を遣わした彼」に言及するのをとても好みました。 彼は次のように言いました。 「私をここに遣わした彼の法を明らかに示すために私はここにいます。それは、私が世界に宣言したり証明する私の法ではありません。」彼を通して話をしたスピリットは、時間の創造物ではありませんでした。
非常にユーモラスで意味ありげな彼の声明があります。 「アブラハムが存在した以前に私は存在する。」 それは何を意味しますか?「アブラハムが存在した以前に私は存在する。」は文法的に矛盾します。 それは理解する感覚を伝えません。
「私はアブラハムが存在した以前に存在する。」と言うのは文法において大失敗です。しかし、それは本物のキリストが語ったことです。 そして、それはキリストの現実の見地からのものであり、「現在」が「過去」に先立ってさえあったということです。 現在が過去に先行します。 どうしたらそんなことがありえるのでしょう?
「私はアブラハムが存在した以前に存在する。」と言うのは文法において大失敗です。しかし、それは本物のキリストが語ったことです。 そして、それはキリストの現実の見地からのものであり、「現在」が「過去」に先立ってさえあったということです。 現在が過去に先行します。 どうしたらそんなことがありえるのでしょう?
そして、それが「アブラハムが存在した以前に私は存在する。」という発言に含意されることです。 スピリットは存在であり、通常、過去・現在・未来まで切り分けられる時間経過の出来事、内容、創造物ではありません。 スピリットには、過去・現在・未来はありません。 そして、これがキリスト意識です。
上記の見解から、自分を空っぽにするとは何を意味しますか、そして、さらにそれによって満たされるとは何を意味しますか?これはスピリットの偉大な原理です。私達がこれらのことについて話すとき本当のヨーガに向かって進んでいます。
上記の見解から、自分を空っぽにするとは何を意味しますか、そして、さらにそれによって満たされるとは何を意味しますか?これはスピリットの偉大な原理です。私達がこれらのことについて話すとき本当のヨーガに向かって進んでいます。
キリストは、偉大なヨーギ、マスターヨーギ、世界が生んだ最も偉大なヨーギの1人です。言葉の本当の意味においてのヨーギでした。彼は同時に絶えずスピリットと一致し、世界または物質の領域の中でスピリットの法において操作してスピリットから食べ物を引き出しました。
数学は、彼の思考方法ではありませんでした。さもなければ、どのように1つのパンがカゴいっぱいに満ち溢れ、数千人に食事を供給した後にもかかわらず、いっぱい残っていることがありえたでしょうか。
数学は、彼の思考方法ではありませんでした。さもなければ、どのように1つのパンがカゴいっぱいに満ち溢れ、数千人に食事を供給した後にもかかわらず、いっぱい残っていることがありえたでしょうか。
1つは多数になることができないし、多数は1つと同じではないので、そこで作動したことは算数ではありませんでした。私達の意識は、いくつかの累積または質料合生の層を発達させました。この原理の思考方法は、一般人の通常の思考方法と少し異なります。
私は、あなたが哲学者であるべきだと言っているのではありません。あなたは、哲学的思考法(すなわちギブアンドテイクとは完全に異なる独特な思考様式)の技術を知るべきなのです。通常、人がマインドで抱く思考の態度は経済的または営利的です。私達の考えはすべて営利的です。 私達は他の方法で考えることができません。
ですが、スピリットは非物質ですので非営利的です。 私達がスピリットに関して話すことは先験的でなければなりません。そして、私達はスピリットの思考方法の訓練で第一歩を踏み出す前でさえ、現世の偏見を落とさなければなりません。 すべての偏見が落とされる必要があります。 これは自分を空っぽにする条件の1つです。
私は、あなたが哲学者であるべきだと言っているのではありません。あなたは、哲学的思考法(すなわちギブアンドテイクとは完全に異なる独特な思考様式)の技術を知るべきなのです。通常、人がマインドで抱く思考の態度は経済的または営利的です。私達の考えはすべて営利的です。 私達は他の方法で考えることができません。
ですが、スピリットは非物質ですので非営利的です。 私達がスピリットに関して話すことは先験的でなければなりません。そして、私達はスピリットの思考方法の訓練で第一歩を踏み出す前でさえ、現世の偏見を落とさなければなりません。 すべての偏見が落とされる必要があります。 これは自分を空っぽにする条件の1つです。
それは、私達が食べたものを吐き出さねばならないという意味ではありません。 私達はマインドの偏見を吐き出さねばならないのです。 一生懸命に偏見を克服するのです。 偏見は菌類やキノコのように私達のまさしくその意識自体で成長しています。 私達は多くの事柄に仮説を立てます。 証明されてない仮説が当然のように打ち立てられます。 そして、それらは通り、家庭、社会、政府、さらには国際的理解としての決まり文句にさえなります。 すべてが偏見に基づいています。
しかし、スピリットは国家や国際関係を築くことに関心がありません。それは、その有用性と内容において優れている重要な何かです。霊的であることは、考えて心に抱くことすら困難です;スピリットの方法を実践することは、いっそう難しいです。この点では、個人的、合理的企て、いわゆる科学的な態度は私達に役立ちません。非独断性においてその知識を誇示するけれども、科学そのものはドグマ(独断的な考え)になります。
しかし、スピリットは国家や国際関係を築くことに関心がありません。それは、その有用性と内容において優れている重要な何かです。霊的であることは、考えて心に抱くことすら困難です;スピリットの方法を実践することは、いっそう難しいです。この点では、個人的、合理的企て、いわゆる科学的な態度は私達に役立ちません。非独断性においてその知識を誇示するけれども、科学そのものはドグマ(独断的な考え)になります。
論理はドグマ(論理そのものによってそれら自身を証明することができない特定の仮定された価値観)に基づきます。常人に関する限り、非独断的な考えなんてものはありません。すべてがドグマです。あなたは、世界があることを当然のことと思います。誰が、あなたに世界があると話しましたか?それは、当然のこととして感じる何かです。それは仮説です。あなたがそれを経験(見る)して述べることを除いては、あなたは論理でそれを証明できません。そして、それを経験したからといって、あなたの頭がよろめいているならば、幻覚映像を見ることすらあるのでそれは確かな証明ではありません。
世界があるということは肉体がその内容であり、世界は量的測定(計算)と営利的法律によって支配されます。法廷における論証でさえ仮説です。 しかし、キリストは決してシーザーの世界を統治しに来たわけではありませんでした。彼はこのように言いました「シーザー(カエサル)のものはシーザーに、神のものは神に返しなさい。」、2つの要素を混同しないでください。キリストは、シーザーの世界とは無関係です。シーザーとは、金と銀、ギブアンドテイク、商業取引、空間と時間のネットワークに巻き込まれる弱いマインドに属する量的計算のようなものです。
キリスト意識は、このギブアンドテイクの一般的方法より遥か上に位置しています。私達が自分を空っぽにすること、スピリットによって満たされるということを理解しなければならないのは、この上位の崇高な見解からです。彼が『汝自身を空っぽにしなさい。そうすれば私は汝を満たすでしょう。』と言うとき、それはイエス(個性)としてのキリストがあなたの頭上に腰掛けているということではありません。個人としての彼はあなたを満たせません。 どうやったら1人の個人が別の個人を満たすことができるでしょう?それはありえないことで考えるだけ無駄です。
空っぽになった個人の器を満たすことができるものとして意味されたのは意識でした。どのように、スピリットはあなたを満たすことができるでしょうか?スピリットは内容物ではありません。なぜなら、まさに内容物というその考えが量的なのです。スピリットに量的基準はありません。それは器を満たせる水、あるいはどんな他の液体にも似ていません。 それには重さがありません。 それには長さと幅がありません。 それはここにあり、ないものです。 それは内在的に在る極めて重要なものです。 これまでに存在する何であれ、それを構成要素としています。
空っぽになった個人の器を満たすことができるものとして意味されたのは意識でした。どのように、スピリットはあなたを満たすことができるでしょうか?スピリットは内容物ではありません。なぜなら、まさに内容物というその考えが量的なのです。スピリットに量的基準はありません。それは器を満たせる水、あるいはどんな他の液体にも似ていません。 それには重さがありません。 それには長さと幅がありません。 それはここにあり、ないものです。 それは内在的に在る極めて重要なものです。 これまでに存在する何であれ、それを構成要素としています。
スピリットを考えることはできません。スピリットはまさしく考えにおける仮定であるからです。 あなたが考え始める以前でさえ、スピリットはあなたの考えを背後で推し進めているのです。 ですから、スピリットを考えるなどといったことはありません。したがって、人間の思考のものさしでスピリットを測定するなんてものもありません。 あなたにそれを受け入れる(含む)容量がないならば、スピリットはどうしたらあなたを満たせるのでしょう!。 スピリットを入れる器はどこにあるのでしょう!
この素晴らしい福音『汝自身を空っぽにしなさい。そうすれば、私は汝を満たすでしょう。』はもう1つの同様に驚くべき彼の声明『天の王国は、あなたの内にある。』によって補われます。どのように、天の王国があなたの内にあることができますか?あなたはそのような小さなか弱い個性、地球の1、2フィートの幅を占有する小さな肉体です。どうやって、天の王国をあなたの内に含むことができますか?すべての彼の声明は、人間のマインドは考えたり理解することに習熟していなかったことを顕著に示しているように見えます。
この素晴らしい福音『汝自身を空っぽにしなさい。そうすれば、私は汝を満たすでしょう。』はもう1つの同様に驚くべき彼の声明『天の王国は、あなたの内にある。』によって補われます。どのように、天の王国があなたの内にあることができますか?あなたはそのような小さなか弱い個性、地球の1、2フィートの幅を占有する小さな肉体です。どうやって、天の王国をあなたの内に含むことができますか?すべての彼の声明は、人間のマインドは考えたり理解することに習熟していなかったことを顕著に示しているように見えます。
あなたは、これまでに人間の個性の内に含まれている王国を見たことがありますか?それでもキリストはそう言います。それはまるで海底に沈んでいるもののことを言っているかのようです。考えが及びません。私達は、彼が常に話した見地からのスピリットが何であるかを理解できないので、キリストのこれらすべての声明は不可解に見えます。その立ち位置は全く異なりました。
あなたは今日、人々が必ずしも、2+2=4になるわけではない類の計算を持つことを知っています。それは、つまり幾何学と算数におけるユークリッドの思考方法です。たとえば、平面幾何学は球面幾何学と異なります。通常の三角形の幾何学は、三角法と異なります。表面上の幾何学における測定法則(価値観)は、球体での幾何学にはあてはまりません。
この説明に関して、彼らは、ユークリッドによれば通常これが規則であるけれども、宇宙の身体の特定条件下では、三角形の3つの角度が必ずしも2つの直角になる必要はないと言います。三角形の3つの角度は常に2つの直角になりますが、これは必ずしも真実ではありません。存在の条件は物質界にさえあります。例えば、マクロコスモス、またはミクロコスモス、彼らがサブ原子層と呼ぶものにさえあります。そこでは、この幾何学は有効ではありません。
あなたは今日、人々が必ずしも、2+2=4になるわけではない類の計算を持つことを知っています。それは、つまり幾何学と算数におけるユークリッドの思考方法です。たとえば、平面幾何学は球面幾何学と異なります。通常の三角形の幾何学は、三角法と異なります。表面上の幾何学における測定法則(価値観)は、球体での幾何学にはあてはまりません。
この説明に関して、彼らは、ユークリッドによれば通常これが規則であるけれども、宇宙の身体の特定条件下では、三角形の3つの角度が必ずしも2つの直角になる必要はないと言います。三角形の3つの角度は常に2つの直角になりますが、これは必ずしも真実ではありません。存在の条件は物質界にさえあります。例えば、マクロコスモス、またはミクロコスモス、彼らがサブ原子層と呼ぶものにさえあります。そこでは、この幾何学は有効ではありません。
2+2=4である必要はありません。より少なくなる、あるいは、より多くなりえます。彼が意味をなさないことをしゃべるので、あなたはこの人を狂人と思います。でも、狂人扱いされる人々は、「人々は2+2=4にしかならず、それ以上にもそれ以下にもならないという偏見にとらわれ、相手が狂っていて自分は正常だと言うんだ。」と言います。私達が考えられる以上に世界は広いです。現今のこれらの発見で指し示されるように、人間が思いつく限りの計算と数学でさえ通常理解の掌握も出来ません。スピリットについて話ることは言うまでもありません!
スピリットは非物質的であるため、非数学的、非計測的です。私達のマインドは、測定と計算の条件内で考えることに用いられるだけです。したがって、王国は人の内に含まれるとは想像できません。天の王国は、あなたによって含められることができません。
スピリットは非物質的であるため、非数学的、非計測的です。私達のマインドは、測定と計算の条件内で考えることに用いられるだけです。したがって、王国は人の内に含まれるとは想像できません。天の王国は、あなたによって含められることができません。
人間の個性に広大な領土や巨大な帝国が内包されているわけがありません。それにもかかわらず、これはある特定の条件下で可能です。一部は全体を含むことができます。それは可能でしょうか? あなたは、今までに、全体を包蔵する一部を見たことがありますか? あなたは一部を含む全体について耳にしたことがあります。どうしたら一部が全体を含むことができるでしょうか?
全体は一部より量的に優れているのだから、それは不可能です。再度、量に関してのみ考えます。多くの一部が全体を形成するので、全体が一部である必要はありません。これは私達の量的な思考法です。しかし、必ずしも全体が量的な総体である必要はありません。物質的な意味で、必ずしも全体が一部の総計である必要はありません。
全体は一部より量的に優れているのだから、それは不可能です。再度、量に関してのみ考えます。多くの一部が全体を形成するので、全体が一部である必要はありません。これは私達の量的な思考法です。しかし、必ずしも全体が量的な総体である必要はありません。物質的な意味で、必ずしも全体が一部の総計である必要はありません。
この独特な総体性に関する1つの例をあげましょう。それは単に一部の総計で構成されるのではありません。あなた自身の身体に属する個性の完全性が例えです。あなたは、存在することに関して完全性の感覚を持っています。あなたの身体には10本の手指、10本の足指、2つの目、手足などがあります。そして、あなたは存在することに一体感と完全性、全体の要領を得ている感覚があります。あなたが一部分から成り立つとは考えません。『私は、10本の手指、10本の足指、2つの目があります』と考えることはしません。誰がそのように考えるでしょう!
あなたは身体の手足について考えず、身体を構成する個々の一部に関して計算することはしません。しかし、常にあなたは「私はここにいる」、「私は来ている」、「私を見て」と総体の「私」を自分で想像します。あなたが、「I」、「My」、「Me」において語るとき、身体の手足の一部に言及するわけでもないし、身体の手足全体を言及するわけでもありません。
あなたは身体の手足について考えず、身体を構成する個々の一部に関して計算することはしません。しかし、常にあなたは「私はここにいる」、「私は来ている」、「私を見て」と総体の「私」を自分で想像します。あなたが、「I」、「My」、「Me」において語るとき、身体の手足の一部に言及するわけでもないし、身体の手足全体を言及するわけでもありません。
あなたは、単一の不可分なものであることの信頼をもたらす身体のありとあらゆる部分に存在している別の重要な全体性に言及します。あなたは分割できる身体の手足の物理的(数学的)総体ではありません、あなたは各部分に完全に存在します。これは想像するのが非常に困難な考えです。 それに関する限りでは、あなたの身体のすべての部分が全体です。
この生体系の神秘に対して、スマッツ将軍と呼ばれる偉大な哲学者は、世界中のすべてのものが全体であることを意味する「全体論(ホーリズム)」と呼ばれる哲学を発展させました。 彼によれば、身体の全細胞は全体であり、すべての原子は単独で全体です。完璧な構造があります。
この世界に部分はありません; すべては全体です。どの木の葉の原形質細胞も他の細胞と調和して、その固体を維持しようと努める全体です。私たちの身体の全細胞、私たちを構成する生体系は独りでに生きようと努め、養い、維持しようとします。なぜなら、それは単独で全体であるからです。
有機体の完璧な構造の中にはっきり在る全体性は、ルピー・コインやドル・コイン、あるいは石の山、レンガの山などの全体性とは異なります。私たちがマインドで考える全体性は、精神的に(少なくとも費物質的に)考えなければならない全体性とは異なります。天の王国があなたの内にありうるのはこの見地からです。
あなたの個性の完全性が身体の各細胞に内在するように、天の王国はあなたの内にあります。天の王国は国土ではありません。それは物理的な帝国ではありません。それは重要性、意義、価値を含意します。私たちはそれをスピリットと呼びます。スピリットは至るところ含まれています。それは空間に存在することを必要としません。したがって、それは、最小の原子の中にさえ完全にあります。このように、あなたの内に天の王国があります。
このすべてが、聖書の中では哲学的に説明されていません。偉大なスピリチュアルマスター(キリスト、クリシュナ、ブッダ)は、彼らの言明に関して注釈していません。彼らは、平凡なマインドが理解するために、後にやって来るより劣ったマインドによって詳述される必要がある示唆的な言明をします。
自分自身を空っぽにすることで満たされるというのは、身体の細胞内にさえ含まれているスピリットのキャパシティーに対する観点によるものです。前述したように意識上にはびこる付着物を徐々に掃除しなければなりません。不純物が取り除かれる必要があります。スピリットがその完全なる崇高・高潔さに開花させることができるように、スピリットおかまいなしに物を蓄積することとは次第に距離を置かなければなりません。ゆえに「自分自身を空っぽにすること」の代わりになるものは何もありません。それはスピリットによる見解であり、物質的な価値観によって述べているのではないということです。
何かを与えるなら、それを失います。これは私たちの数学です。与えれば与えるだけ失います。それは単純明快です。しかし、「与えれば与えられるでしょう。」とキリストは言います。どうしたらそんなことがありえますか?与えたからといって、あなたに与える誰かに出会ったことがありますか。彼はあなたが与えるものを受け取って立ち去ります。
しかし、キリストが言うのは、単に与えたものが戻ってくるということではなく、怒涛の勢いで溢れんばかりに戻ってくるというものです。1を与えれば数百、数千、数百万になって戻ってくるだろうとキリストは言います。これは再び、非数学的計算です。1しか与えないのに、どうして数百、数千が得られるのでしょう?「与えれば与えられるでしょう。」とキリストは言います。そして、彼はそれに衝撃的な、驚くべき、畏敬の念を起こさせる1つの形容詞を添えます。
与えたことで溢れんばかりに戻ってくるものは計量できるものではありません。計量器具では中身が入るに従って徐々に溢れ出ます。そして、はちきれんばかりに並々と溢れ出ているときに戻ってくるでしょう。したがって、与えることによって失う心配をしないでください。スワミ・シヴァナンダ・マハラジはこの与えるという霊的哲学において大きなお手本でした。私は、あのような人に会ったことがありませんし、別の人に会いたいとも思いません。
私たちは、与えることによって失うと考えます。しかし、スピリットは、私たちは与えることによって益すると言います。したがって、あらゆる点でスピリットの法則は物質の法則とは異なることがわかります。キリストの法則はシーザーの法則とは異なります。神の法則は人の法則とは異なります。これは素晴らしいことです!
私たちは、与えることによって失うと考えます。しかし、スピリットは、私たちは与えることによって益すると言います。したがって、あらゆる点でスピリットの法則は物質の法則とは異なることがわかります。キリストの法則はシーザーの法則とは異なります。神の法則は人の法則とは異なります。これは素晴らしいことです!
したがって、自分自身を空っぽにすることはスピリットに寄り添うことであり、スピリットに寄り添うことは物質世界でスピリットの特性を認識することです。私たちはスピリット自体の気づきを失いました。私たちは物質に気づいているだけです。スピリットに気づいていることは同時にその特性に気づいていることです。
光・熱なしに火を考えることは出来ません。火というアイデアは、自動的に光・熱というアイデアに結びつきます。同様に、スピリットというアイデアは自動的に遍在、すべてに浸透・広がるキャパシティーに結びつきます。すべてのものを含み、超越していることはスピリットの別の特性です。
すべてのものを含み、超越しているという言葉は何を意味するのでしょう?これはアナロジーによって説明することが可能です。これを論理的に説明することは出来ません。目覚めている状態の意識は、夢の内容をすべて含み、超越しています。
光・熱なしに火を考えることは出来ません。火というアイデアは、自動的に光・熱というアイデアに結びつきます。同様に、スピリットというアイデアは自動的に遍在、すべてに浸透・広がるキャパシティーに結びつきます。すべてのものを含み、超越していることはスピリットの別の特性です。
すべてのものを含み、超越しているという言葉は何を意味するのでしょう?これはアナロジーによって説明することが可能です。これを論理的に説明することは出来ません。目覚めている状態の意識は、夢の内容をすべて含み、超越しています。
夢の中で、あなたは資産家でした。大きな会社を経営して、高額の給料を得ました。豪華な食事をとりました。あるいは、あなたは王様でした。しかし、目を覚ますとすべてが失われます!実際に何かを失うでしょうか?目覚めた意識は、夢の中で手中に収めたように見えた全ての富を超越しています。夢の中で王様になりたいですか; それとも目覚めている一般人ですか?
あなたは夢の中の王様でいるよりも、目覚めている状態の一般人でありたい。なぜなら、夢の中の王様の価値は目覚めている一般人の価値に劣るからです。それは意識に違いがあります。乞食であるか王様であるかは重要ではありません。違いは、人が意識していることの中ではなく意識の状態にあります。夢が包摂する内容でさえも目覚めている意識に含まれており、超越されています。世界の価値観はすべて至高のスピリットの意識に含まれており、超越されています。
私たちがスピリットを得る場合、世界を失うことはありません。世界を失うと思っているので、多くの人々はスピリット(神)の元に行くことを恐れています。多くの人が思います:「家族や友人はどうなるの?私が神の元に行くとしたら彼らはどうなるの?あぁ、愛しい我が子を置いていくなんて嫌 ;神の元になんて行きたくない。」これは愚かな思考様式です。何故ならこれは再び数学的・商業的な解釈、物質的な思考様式です。いまだ私たちはビジネスマンです。このアイデアを超えられません。
親愛なる友よ、あなたが神の元に行くならば、そこで親しい者たちに出会うでしょう。なぜ家族や友人のことで憂いているのですか?あなたが今見ているより、優れた目で彼らを見ることが出来るでしょう。また、彼らを助けるつもりであれば、今よりも適切に支援することができるでしょう。支援するための活力と能力は遥かに増強されるでしょう。この世界にある全ては神の王国に含まれていて、締め出されることはありません。神の元に行くことは世界から離れることではありません。
そのうえ、私たちは量的な運行というアイデアを持っています。この偏見をご覧なさい!私たちはロケットで地球から別の惑星へ行くかのごとく世界から神へ移動しません。それは空間の移動ではありません。それは夢から目を覚ますような意識の変容です。夢から目覚めるとき何かを失うでしょうか?夢の友人、王国、富を失いましたか?
あなたは悪魔が去ったことを喜ぶだけです。「何という悪夢だったのか!悪夢は去り、今は幸福だ。」これがあなたが目覚めたときの気持ちです。「あぁ、私の王国が消えた、私は王だったのに全部を失ってしまったじゃないか?」と言って感情を大げさに表現しますか?同様に、あなたが神に至る時、あなたの身に都合の悪いことは起こりません。スピリットは物質界において価値のあるものをすべて含んでいます。
あなたは悪魔が去ったことを喜ぶだけです。「何という悪夢だったのか!悪夢は去り、今は幸福だ。」これがあなたが目覚めたときの気持ちです。「あぁ、私の王国が消えた、私は王だったのに全部を失ってしまったじゃないか?」と言って感情を大げさに表現しますか?同様に、あなたが神に至る時、あなたの身に都合の悪いことは起こりません。スピリットは物質界において価値のあるものをすべて含んでいます。
キリストが人々に理解されなかったのは、この事実によります。いかにしてスピリットを理解することが重要になりうるのでしょう!それゆえ、彼は十字架にかけられました。私たちは何らかの形で、人生の日常で神を迫害しています。私たちは、エゴの主張、物質的価値観の表明、量的思考様式への強固な執着によって彼を殺しています。「与えることによって失う」、「神の元に行くことによって世界を失う」などなど。これらはすべて真実に反する間違った仮定です。
では、もう一度言います。自分自身を空っぽにするというのは、スピリットの普遍性を遮っている付着物を体現した自分自身を空っぽにすることです。その後、あなたは神意識の大洋の有り余るほどの浸水で満たされます。あなたが神のレベルに上がる場合、甘露の味わい、美しさ、偉大さ、壮大さを伴った海洋に浸かり、全面的に満たされます。
神がやって来るとき、彼は人のように1つの方向からやって来るのではありません。彼はあらゆる所にいるのですから、全方向からやって来ます。彼は東洋(西洋)からのみやって来るのではありません。彼は人間ではありません。彼はあなたの個性に入る普遍的なスピリットです。かつてシュリ・ラーマクリシュナ・パラマハンサは、神が人に入るのは狂った象が藁小屋に入るようなものだと言いました。別の神秘家は、それは一滴に入る海洋(あるいは溢れる川)のようだと言いました。
これらはすべてスピリットの至高・壮大さについてアイデアをもたらすイメージにすぎません。彼らは実現の同じ土台に立っているので、まったく同様に考えます。私たちがこれらのラインに沿って考えられるようになるほど、より霊的・ヨーガ的になります。ヨーガは世俗的価値観の何かになることではありません。あなたの手足で行うものでもありません。それは、あなたの現在の物理的な個性の限界を越える完全性の理解、内部構成要素(思考・感情・意志)の変容です。それはキリストが誕生する場所です。
キリストとクリシュナは真夜中に誕生したと言われています。太陽が照らしているとき(つまり日中)には生まれなかったのです。バガヴァッドギーターでは「Ya nisa sarvabhutanam tasyam jagarti samyami、yasyam jagrati bhutani sa nisa pasyato muneh」と言います。あなたが見るものを賢者は見ません; 賢者が見るものをあなたは見ることができません; あなたにとっての昼が彼らには夜です。彼らにとっての昼があなたには夜です。
あなたにとって神意識は、不明瞭、無知の暗闇で、神は全く存在しないかのようです。したがって、多くの人々は神を否定するほどまでに至ります。彼らは神を見ることができません。賢者は神のほかに何も無いことを見るわけですが。彼らは世界を世界と見なしません。白内障を治療した人は2つの月を見ることはありません。彼は「2つの月がありました。今、1つの月がなくなりました。」とは言いません。2つの月はありませんでした。真実は、1つの月しかなかったのです。
同様に霊的な薬が人間の病んだ精神に処方される場合、まったく異なる新しい思考様式で考えることを可能にする霊的な健康状態にあるでしょう。そして人は超人になります。この思考様式で考える人は超人です。彼は凡人ではありません。彼を人と呼ぶことはできません。超人は超人的な精神を秘める神殿です。神がその人を通じて現れていると考えられる人を私たちは超人と呼びます。そのような人々がキリスト、ブッダ、クリシュナでした。しかし、人類の偉大な素晴らしいマスターはみな徹底的に誤解されました; 彼らの教えは理解されることなく、誤伝・悪用・乱用されました。残念ながら今日の私たちは破滅に導く者になびいているように見えます。
しかし、神は偉大であり、その全知の目で見るすべてが神の領域では適切であるとされるでしょう。したがって、スピリットを認識することは偏在する神の存在を認識することです。そして神で満たされることは、スピリットで満たされることと同じです。そのためにも、私たちは客観的意見に対する外在化された偏見をすっかりなくして私たち自身を空っぽにしなければなりません。我々を養うために対称に依存しているべきでありません。
「人はパンのみで生きるにあらず」とは、単に世界の量的なもので生きているのではないと言っているのです。 あなたには十二分に量的な、そして、宇宙の全体にさえ勝る何かがあります。 スピリットは宇宙そのものより大きいのです。 宇宙は結局のところ総量です。 そしてスピリットはそれより大きいのです。 Purusha Suktaには、「Atyatishtad-dasan-gulam スピリットは宇宙より大きい」と書かれています。
私たちの思考の霊的リフレッシュの背景に加えて、日々の創造の神秘、神の威厳、霊的生活の重大さ、ヨーガの途方もなく壮麗な成就を熟考しなければなりません。それは私たちに先立っている、至高の解放、キリスト意識、神実現です。
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ジーザス・クライストについて語るスワミ・クリシュナナンダ-----------------------------------
The Coming of God on Earth
http://www.swami-krishnananda.org/disc/disc_111.html(動画の英文)
PR
ノンデュアリティマガジンからアヒムサナンダ(ビル・リンドレイ)という方の記事を転載します。
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http://www.nondualitymagazine.org/nonduality_magazine.billlindley.htm
私は規則を作り、「The Community Of The Living Sacrifice (生ける犠牲の共同体)」が生まれました。 コミュニティは若いゲイの人々と協力しました。また、私たちは元囚人、退院したての精神病患者、ホームレスを受け入れました。
コミュニティの閉鎖とともに、私はラーマクリシュナ、ラマナ・マハリシ、ニサルガダッタ・マハラジを知りました。これが霊的探求に息を吹き込み、1990年に最終理解が生じました。探求は終焉しました。およそ10年後、私はコミュニティの規則を非二元的用語で作り直しました。
それから10年ほど経った頃、ニサルガダッタが夢に現れ、私の理解を他者と共有すべきであると一連の夢で指し示したことから「教え」を開始することにしました。
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http://www.nondualitymagazine.org/nonduality_magazine.billlindley.htm
私はキリスト教神秘主義とアドヴァイタの教師、元イングランド国教会修道士です。「The Cloud Of Unknowing(不可知の雲)」を読んだことで変化した後、私とパートナーはリンカン司教区から瞑想的/奉仕の宗教コミュニティを組織するよう依頼されました。
私は規則を作り、「The Community Of The Living Sacrifice (生ける犠牲の共同体)」が生まれました。 コミュニティは若いゲイの人々と協力しました。また、私たちは元囚人、退院したての精神病患者、ホームレスを受け入れました。
コミュニティの閉鎖とともに、私はラーマクリシュナ、ラマナ・マハリシ、ニサルガダッタ・マハラジを知りました。これが霊的探求に息を吹き込み、1990年に最終理解が生じました。探求は終焉しました。およそ10年後、私はコミュニティの規則を非二元的用語で作り直しました。
それから10年ほど経った頃、ニサルガダッタが夢に現れ、私の理解を他者と共有すべきであると一連の夢で指し示したことから「教え」を開始することにしました。
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デザート(悟り)の前に、まず野菜を食べよう!
デザート(悟り)の前に、まず野菜を食べよう!
子供の頃、私の兄は特定の食べ物(野菜が多かった)を食べることを拒絶したので、しばしばデザートを出してもらえませんでした。一方、私は問題ありませんでした。 私はいつも目前に出されたものを食べました。
この違いは、私が何でも好きだったわけではなく、少しばかりの真実を知っていたということです : 口に合わないものを食べた後、デザートは口直しになります。私は「人生」と同様に「精神性」にこれが当てはまることを見出しました。
この違いは、私が何でも好きだったわけではなく、少しばかりの真実を知っていたということです : 口に合わないものを食べた後、デザートは口直しになります。私は「人生」と同様に「精神性」にこれが当てはまることを見出しました。
多くの子どもが特定の野菜、「大人」の食べ物を嫌う(さらには軽蔑も)理由の1つは、彼らの味蕾(味覚器官)がまだ発達中で、あまり繊細でないということです。つまり、味覚が濃厚で苦味は余計に苦く感じるということです。これがどのように精神性に当てはまるのでしょうか?
多くのネオ・アドヴァイタ教師(特に西洋)は、「強烈」または絶対的なアドヴァイタ(非二元性)のバージョンを教えます。 これは、「実習」の必要はないと言う教えです。 たとえ「探求者」が自分は明らかにそうではないと感じても(あるいは、彼らはこの混乱させる教えを正しいと判断します!) 、「あなたは既に目覚めています」と告げる教えです。
何人かはこの過激な教えに対する準備が整っています。 実習は必要ないということを聞く準備ができているのは年々の実習を重ねた人です。彼らだけが真意を理解するでしょう。「既に目覚めている」の理解がある「人たち」だけが、体験として「目覚め」を理解するでしょう。
センタリングの「手法」(キリスト教用語では想起)の「実習」の土台を欠いたこうした概念を理解することを「スピリチュアル入門者」に期待するのは、味覚の発達していない子供に不快に感じる食べ物を食べることを要求するようなものです。
理解に先立って、「あなた」が誰なのか想起が始まる場合があります; 始めは「I AM(私は在る)」の「知的理解」が必要です。
ニサルガダッタ・マハラジのような人でさえ、グルの言葉を実現するために3年を要しました。また、これは霊的好奇心と献身の期間が終わった後でした。ニサルガダッタ・マハラジの教えを見る場合、ニサルガダッタ・マハラジの人生も見なければなりません。彼の人生は彼の教え(彼が発言したこと)と同等です。
ニサルガダッタ・マハラジのような人でさえ、グルの言葉を実現するために3年を要しました。また、これは霊的好奇心と献身の期間が終わった後でした。ニサルガダッタ・マハラジの教えを見る場合、ニサルガダッタ・マハラジの人生も見なければなりません。彼の人生は彼の教え(彼が発言したこと)と同等です。
マハラジの晩年では、彼は病気のために使える時間が短くなったので基礎を固守しました。彼は土地を完全に開墾することを望んでいました。初期の人生では、彼の教えはしばしば礼拝に従事し、同様に行うことを他者に助言しました。かつて彼はネオ・アドヴァイタに傾倒していたと思われる女性を意気消沈させました。
彼女は皆に実習や礼拝を行う必要はない、私たちは既に自由であると伝えていました。中二階の小部屋でマハラジは彼女に何を理解したかを尋ねました。彼女は、すべてが完全で1つであることを知っていると返答しました。
マハラジは献身と詠唱に従事するよう彼女に伝えました。彼女はそれを信頼できませんでした。しかし、マハラジは彼女が何を必要とするかをわかっていました。耕されていない土地に種を蒔いてもうまく育ちません。
マハラジは献身と詠唱に従事するよう彼女に伝えました。彼女はそれを信頼できませんでした。しかし、マハラジは彼女が何を必要とするかをわかっていました。耕されていない土地に種を蒔いてもうまく育ちません。
I AM、物事の絶対的性質は、準備されたマインドの中だけで成長できる概念です。準備されていないマインドでは、真実の一瞥は混乱させるどころか有害・危険にすらなりえます。ニサルガダッタは、彼の教えがあなた自身の心に抱くすべてを焼き払うだろうと警告しました。これは、あなたが本当は誰なのかの適切な「開墾」なしには、心理的・精神的に非常に危うい土壌でありえます。
真正の教師は混乱ではなく明晰さへあなたを導くでしょう。真正の教師は、あなたが精神的に「どこ」にいるのか知っています。 彼はあなたが献身を必要とするかどうか、空っぽになることが必要かどうか、「それをさっさとこなす」時かどうかを熟知しています。それから「nothingness/everythingness」への最終「ステップ」を踏みます。
しかし私たちは、まだそれに対する味覚の発達していない(芽キャベツを嫌う子供のような)「人」に無理強いしてはなりません。即時の満足を欲する大勢は同じくらい霊的なものに対する「味覚」が発達していなければなりません。人生の味わいを楽しみ、評価し、廃棄することができるようになるためにも。
人は多く「実習」に努める必要があります。好き嫌いがあるかもしれません。選り好みします。個人的に好きになれない実習こそ最適とわかるかもしれません。というのも、私たちは欲望のままに「求めています」。
精神的に成長するに従い、味覚が広がり、余分なものの拒絶が「開始」されます。 味を犠牲にでき(味に無執着)、静けさの微細な風味を楽しめる成熟した味覚は、デザートだけでなく何であれ全体の食事を楽しむことができるでしょう。
アヒムサナンダのブログ(英語)
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精神世界(スピリチュアル)には数多くのトラップが存在しています。私も懲りずに何度もひっかかりました。安易に鵜呑みにせず、自分自身で調べる、考える、見極めることが大切なんだと思います。経験してみないことにはわからないこともありますが、情報を知ることで罠を回避できることも十分にあると考えられます。
国内だけでは情報が限られるので海外にも目を向けています。
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