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カルキのディクシャ  WHO IS THAT?
インド聖者カルキバガヴァンとワンネスムーヴメント。 その知られざる実態に迫る。 ワンネス劇場の舞台裏で何が起こっていたのか!? その他、悟り系の情報を紹介。玉石混交のスピリチュアル、玉にみせかけた石にはご用心。
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Think for Yourself  by サダシヴァ・ヨギ

第2章. マインドと宇宙エネルギー

マインド(心)は呼吸と共に動く。
マインドの特性は創造であり、呼吸の特性は活動である。
それらはコインの裏表のようなものだ。

では、なぜマインドは活動し続けるのだろう?

それは性質と言える。
レモンの性質は酸っぱい ; それは性質である。

それと同じように、マインドにも性質がある。
その性質は動くということだ。

したがって、もしマインドに動きがなければマインドはない。

動きは境界がある。地球の2つの正反対の磁極に一致する。人間はもう一方に引き寄せられる。- プラスとマイナス、男と女 - 全ての創造が始まってから相互に作用し続けている。

これは呼吸で象徴することができる : 吸気と呼気。
マインドと呼吸は直接関係している。

同じようにマインドは五感と身体の10チャンネル(両眼、両耳、鼻孔、性器、肛門、皮膚、舌)とも関連している。

ある男が彼の妻の夫であるように、彼は子供たちにとっての父、両親にとっての息子、従業員にとっての上司である。

マインドと感覚についてもそれは同じである : 人は五感を持っているけれど、それと同一化する。その感覚はマインドの存在を引き起こす。動き、落ち着きのなさ。

そこで我々は、マインドに静寂をもたらすために最初に五感を遮断する必要がある。

例を挙げよう。ある男が10の店を経営しているとしよう。電化店、食料品店、織物店などなど・・・。彼は日中の間は店から店を駆け回り、落ち着きがない。

だが、それから日没後に全部の店を閉めて帰宅する。すると彼はしっかりと落ち着きを得る。

それゆえ、マインドは感覚の10チャンネル全部を閉鎖し、家に向かう必要がある。

その家はどこだろう?

上のほうだ、すなわちBrumadya(眉間に位置する)。
このポイントにおいてマインドは呼吸の動きに従う。

なぜ呼吸なのか?

なぜかというと、地球の至る所に電気があるのだが、それは粗雑なため我々は直に得ることが出来ない。

だから我々は宇宙エネルギーと結合するために仲介として呼吸の電位を用いる。そして我々はこのチャンネルを通じて電気を利用できるのだ。

マインドについても同様だ - 我々はそれを得るためにチャンネルが必要だ。
五感が止まったときでさえ、思考は留まる。

マインドは完全に静まらない。
だから我々は呼吸を用いる。なぜなら呼吸が活動するとマインドは活動する。

日々あなた自身を観察してごらん - あなたの感情、あなたの反応。
すると、マインドはありきたりの活動に注意深くなる、呼吸は均一化する。


だが、マインドは強い感情によって圧倒される。恐れ、情欲、興奮。例えば、呼吸が速くなると動揺する。マインド、呼吸のどちらも落ち着かない。平和がない。

せわしいバス停で立っていたことがあるだろうか。自分のことに夢中になり、1点集中していたのではないか?

新たに人々がやってきても、あなたは彼らをよく見ない。
騒々しい音がするけれども、あなたは彼らに耳を傾けない。

あなたのマインドは役目が済むまで1つの思考に鋭く集中している。マインドはうわのそらで彼らを相手にしない。マインドは意識の(気づいている)状態と合併する。

だが、いまだそれは1つの思考である。だから我々は実際にはマインドが平和にあるということは言えないのだ。

しかし、瞑想の状態に入り、意図的に五感を遮断するとマインドは意識の中に溶け込み吸収される。マインドと意識は1つになるのだ。そのような状態ではマインドはない!

これは、あなたが消滅することを意味しないが、「私意識」の考慮はない。
あなたはより大きな「ある」に成る。

するとそのとき、マインドのエネルギーは宇宙の振動地点(あるいは宇宙の脳)まで吸収され、それと1つに成る。

そう、これが様々な宗教でニルヴァーナ、モクシャ、天国として言及されているということだ。
キリストは「天国は内にある。」と言った。それは外部の場所ではない。

マインドは神の家に帰還するが、その場所はあなた自身の元々の場所である。
それは分離の不在である - それは平和である - 我々が求めて揺れ動くことは無い。
それが元々の場所であるなら、「そこに行こう」と言うのは正確ではない。

そうではない、それは既にあるのだ。

あなたは感覚の衝撃を認め、呼吸の動きを鎮めるゆえ、マインドに巻き込まれて同化することに気づいているようになり、それによって適切な位置に移る。
そして、それに従えばいいだけだ。

あなたのマインドは意識の所定の場所、普遍的ハート、原初のポイントの中に自然に吸収されてゆく。これが愛だ。

思い出してほしい、愛は「私はあの物が大好きだ」とか「私はこの人を愛している」ではないことを。それは内側の分離を意味する(さもなければ、誰が愛するのだろう?)。究極の愛とは分かれた極が1つに統合することである。愛は普遍的なハート、または神の働きと一体となった自己である。

あなたはそれを好きなように呼ぶことが出来るが、それは名前ではない。
それに名前をつけることはそれを制限することである。それは限界を持たない。

繰り返し言うが、あなたはそれを体験しなくてはならない!

「私はその哲学(その宗教)を信じます」とは決して言わないように。
信念は未来を必要とする。
「あとになればわかるさ ; 今は信じるのみ!」

あなたがすべてをわかるのは、あなたが自分自身で体験するときだ。
個人的に体験したあなたにとっての真実に従う必要がある。

礼拝、プージャ(儀式)、あらゆる種類のヨガ、あれこれのスピリチュアルな生活様式、この瞑想、あの瞑想; これらのものはあなたを神に導くことは出来ない。

彼らは実際には神と融合することを妨げているのだ。
彼らがやっている全ては「すること」に関していて、「成ること」ではない。

あなたは「すること」によっては成らない。
あなたは「ヨーガをする」ことや、意識的になることで成れるわけではない。

あなたは、単に自己を静かにさせて、マインドを落ち着かせる必要がある。その後に普遍的なポイントが見え始める。
それから、それに従うのだ。それを起こるがままにさせよう。それを起こそうとしないように。

外側ではなく、内側の感覚、内側の呼吸に従うのだ。それは自発的に発生するだろう。

スーフィーが言うように、「あなたが初めの一歩を踏み出すと、宇宙が次の一歩を歩み寄る。」

自然の道が普遍的な道を意味するわけではない。
自然は地球の二元性に属する道であり、極から極への動きを生み出す。
それはそれ自身の目的に仕える。

動物たちは自然の道に従う。彼らは意識があるが、知識を形成することは出来ない。

人間は知識を形成することによって、自然の循環を自発的に脱する。そして宇宙全体と1つになって自由になる。

そして覚えていてほしいのは、もし人がこの潜在的な内側の衝動を感じるなら、それが可能であるのを知っているからだということだ;人はこのワンネス、この平和をある時点で経験している。それは幻想ではない。

幻想(イリュージョン)とは両極性の運動、自然現象(性質)、循環(周期)というこれら全てである。我々はこれをマーヤーと呼ぶ。

そして、自分達で循環を繰り返す際に、我々は物質に執着した状態で暮らす; 幻想(イリュージョン)。
我々が二元性を繁殖させ、分離的で、循環を繰り返し続けているなら、自然界は満ち足りている。

神とひとつになるために、我々は自然を超える必要がある。
我々は最上のものを成し遂げる必要がある。

すると、自然界が神であるとして神は遍在しているとみなすのは正しくない。我々は自然と共生してはいるが、神と共生していないのは確かだ。

そして、我々は祈るとき、何に祈っているだろうか? 特定の対象に向けて? 特定の場所に出向いて?

神が遍在するならば、我々は常に神と共にいるのだ。
太陽は光線の根源だ。神もそれと一緒だ。

神は万物が至る中心点である。我々はその点の中で生きている。
それは今いる現在のこの場所ではない。

すると、我々が向かう必要があるその場所はどこにあるのか?

しばしば語られていることだが、すべての宗教、哲学、「道」は、それぞれの方法があたかも有効であるかのように正当化するものの、実際は同一のホイール(車輪)のスポークであり、すべては同一のハブ(車輪の中心部、神)に導こうとしている。

確かにある程度、有効ではあるが、彼らは神ではない。
神とはそれ自身の中心点である - 分離が止まる地点。

車輪のアナロジーを用いると、車輪の中心を通して車輪が瞬間々回転するのを促進しているにもかかわらず、旋回している車輪の中心には動きがない。;および隠喩を拡張すると、例えば、回転木馬の旋回している車輪の上に着座すると、車輪の自然な回転運動は中心部からあなたを押し出そうとする。

それと同時に、中心部に引き寄せる別の力が働く。
この力の相互作用は自然法則である。

現在、自我(エゴ)のために我々は中心部、すなわち天国から投げ出される。
我々が自我を弱めるなら、神に引き戻される。
これが実現、瞑想の道である。

特定の車輪のスポークと同一視することは、どのみちポイントを逃す。それは大抵あなた自身の選択ではなく、あなたの家族や伝統によってあなたにあてがわれたものだ。

それでも、多くが言うだろう。「ええ、そうですね。 でも、それは神に向かう第一歩として有効な手段なので、私のスポーク・私の宗教・私の恋愛関係は正しいのです。」

しかし、それが第一歩であると気づいているということは、その後のステップがあること、彼らがいる「道」がそれじゃないことを知っているということだ。

それなら、なぜ先に進まないのか? なぜ第一歩を踏み越えて中心部(神)へ移動しないのだろう?

中心部(神)に溶け込むために使用できるすべての時間とエネルギーが、第一歩をよじ登ることに使い果たされる。
 

後略(続)

============

以前にあげた記事の続き(チャプター2)になりますが、この章はこれで完結ではありません。
途中ではありますが、原本をどこかへ閉まってしまったのと当分は訳すことがなさそうなことから、このままになるかもしれません。
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精神世界(スピリチュアル)には数多くのトラップが存在しています。私も懲りずに何度もひっかかりました。安易に鵜呑みにせず、自分自身で調べる、考える、見極めることが大切なんだと思います。経験してみないことにはわからないこともありますが、情報を知ることで罠を回避できることも十分にあると考えられます。
国内だけでは情報が限られるので海外にも目を向けています。
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