カルキのディクシャ WHO IS THAT?
インド聖者カルキバガヴァンとワンネスムーヴメント。
その知られざる実態に迫る。
ワンネス劇場の舞台裏で何が起こっていたのか!?
その他、悟り系の情報を紹介。玉石混交のスピリチュアル、玉にみせかけた石にはご用心。
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ディクシャとは何なのでしょう?1つの情報だけではなく、様々な情報と比較することで見えてくるものもあるかもしれません。
厳密にはイニシエーションとディクシャは意味が異なるかもしれませんが、とりあえず「伝授」ということで同義として扱います。
伝授でもその場かぎりのものもあれば、さらに別枠の伝授をうけることで、自分が伝授者になれるという2種類があるかと思います。
この伝授者になれる伝授を「アチューンメント」と呼んでいるケースも見かけます。
今回は参考資料として、故シュリ・チンモイ師の言葉をとりあげてみます。
長文になりますが、伝授ということで関連のある文章を2つまとめて掲載します。スープリームという言葉は「神」に相当する語として使用されているかと思います。
チンモイ師はインドのベンガル州の出身1931年生まれ。生粋のインド人です。十代初期に両親を亡くし、シュリ・オーロビンドのアシュラムで過ごすようになり12才で神を悟ったとされています。アシュラムを出て、長年に渡って瞑想指導に努めてきました。2007年没。
詳しいプロフィールは下のリンクでみることが可能です(日本語あり)。
今回、翻訳するうえで、ざっとHPを見たなかで知ったのですが、カルカッタのマザー・テレサと親友だったのですね。知りませんでした。
生前は日本にも何度か来日されていた親日家でもありました。
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www.yogaofsrichinmoy.com/
イニシエーション(秘儀伝授、ディクシャ、伝法灌頂など)
質問 : イニシエーションについて説明していただけますか?
シュリ・チンモイ : 私が誰かを受け入れた瞬間、私は目、手、微笑などをもってその人に伝授します。
その時、私は、高い理解を得させることを弟子に誓います。
そして、生徒は、神(Supreme)を悟ったときに神を表すための完全な道具になることを誓います。
弟子は喜んで、財産(無知)を差し出します。
しかし、それは自然に差し出さなければなりません。
あなたの富を師に差し出さなければなりません。
あなたの富とはあなたの無知のことです。
そして、師の富は彼の光です。
あなたが師の究極の富を受け取ると、限りない光の所有者になります。
平和と光はどこからやって来るのでしょう?
それは最高の源から来ます。
そして、あなたはこの平和と光を表そうとします。
私はインドの伝統的な方法で弟子に伝授していません。
私はそうしたいと思いません。 ココナッツ、一片の布またはいくらかの米を私に持ってくるよう要求しません。
ヴェーダとウパニシャッドを詠唱し、宇宙神と女神に加護を祈ることは私はやっておりません。
私にとって、それは全く必要ありません。
神が私を通して人々に伝授しています。
私の場合、誰かを本当の弟子として認めたとき、それを承認することがまさしく伝授です。
私が誰かを受け入れたならば、彼は伝授されたということです。
私が本当に彼を受け入れて、その人が本当に伝授を求めているならば、私は彼の無知を取ることを真剣に約束します。
伝授は本当の承認を意味します。
あなたが私を師として本当に認めたならば、私は本当にあなたに伝授します。
あなたの承認が誠実でないならば、そのときはあなたは伝授されません。
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師と弟子
本物の霊的教師は、神実現に達した人です。 誰もが神と1つであるのですが、本物の霊的教師は意識が神と一致しています。いつでも彼は高い意識に入って、神からメッセージを降ろすことができます。
彼が本物であるなら、師とは、心から切望し彼を信頼する探求者にとって地球の神の代理です。彼は、彼らを助けるように神から認可、または任命されました。本物の教師(本物のグル)は神御自身です。
しかし、しばしば彼は霊的教師を通して働くでしょう。師は探求者を鼓舞して、エネルギーレベルを引き上げます。
時が経つうちにスープリームの無限の恩寵を通して探求者に悟りが与えられます。
師をただの人としてみなすのであれば、あなたは見誤っています。
あなたは本物の師が身体の内側にいると感じていなければなりません。
私の弟子はなぜ私の元へやって来たのでしょう? それは私の中に彼らの本当の師(Supreme)がいるからです。彼らの中にもスープリームがいます。しかし、彼らの中のスープリームはまだ眠っています。私の中ではスープリームは完全に目覚めています。
師と弟子は同じ能力を持つ2人の友人に似ていますが、1人は眠っていて能力を表す以前に、起きるのに助けを必要としています。
グルは彼の兄弟の足に触れ、彼の頭をなでて「起きてください。もう私たちが父のために働くべき時間です。」と知らせる誰かです。
師が弟子として誰かを認めるとき、彼は自分の一部としてその人を受け入れます。弟子が不完全であるなら、師も不完全に留まります。 弟子の完成は師の完成です。 私は、いつも個はない、人格はないと言います。
私の弟子の達成が天国、あるいは地獄へ私を連れてゆきます。私には絶えず天国に留まる能力がありますが、私自身として彼らを受け入れたので、いつの瞬間でも彼らは容易に私を地獄まで引っ張ることができます。
本物の霊的教師は弟子の内側の神性を弟子のハートの奥から前面にもたらそうとします。 彼は弟子のハートの扉をノックして、私たちが魂と呼ぶ神の子を喚起します。
彼は魂に告げます。「あなたは、家族のメンバー(肉体、生気、マインド)の面倒をみるのです。彼らは絶えず混乱しています。今、彼らに新しい人生、新しい意義、新しい目的を与えてください。」
人生に愛、真理、光がないならば、無意味で不毛であると彼の弟子に感じさせるのは霊的教師の仕事です。
霊的教師が彼の霊的な子供のためにする中で最も重要なことは、彼らに広大な何かを自覚させることです。
彼ら自身の内側の無限は神御自身以外の何でもありません。私たちのハートの中には最高の先験的な真理がありますが、残念ながら私たちはまだそれを発見していません。
ですから、私は魂の住処、ハートで瞑想するように弟子に頼みます。 最終的に、彼らはどうやって魂に接触するかを学び、その指示に耳を傾け始めます。 その時、彼らは最高、最深の自己を発見することに向かって本当に進歩し始めます。
既に開発されている人であれば、すなわち、過去生で霊的生活を実践していて、自分の内の存在の指示を聞く立場にあるならば、彼にとって霊的教師を持つのは絶対に必要なことではありません。
その場合、彼は内に深く入って心から霊的生活を実践するだけです。 師の助けを求めないので、彼は完全に自分と神の限りない恩寵に頼らなければなりません。
しかし、私たちは霊的修練が非常に困難であることを知る必要があります。 稀なケースとして霊的教師の助けなしで神を悟った人々がいるだけです。 1日、1カ月、1年、10年、彼らが神を悟る以前に、ほとんどの霊的教師たち自身が誰かから助けを得ました。
私たちが外側の知識を得るのに外側の教師を必要とするように、特に初期段階では霊的教師が霊的生活で私たちを助け導く必要があります。
さもなければ、私たちの進歩は非常に遅く、不確かなものになるでしょうし、ひどく混乱するようになるかもしれません。
私たちは高い経験を得たとしても、それを適切に理解できないかもしれません。疑念が私たちの心をおおい隠すかもしれません。
そして、私たちは言います「私は一般人にすぎません。したがって、どうすればこの種の体験をもつことができるのですか?きっと私は騙されているのだろう。」
あるいは、私たちは友人に話します。すると彼らは言います「それはすべて精神病による幻覚症状だよ。霊的生活を忘れなさい。」
しかし、現実が何であるかを知っている誰かがいれば、「馬鹿な真似をしないでください。あなたが体験したことが真実であるのは明らかです。」と言うでしょう。 師は探求者を励まし、奮い立たせて、彼の体験を適切に説明するでしょう。
一方、探求者が瞑想で不適切なことをしていれば、師は彼の誤りを正す立場にあります。
私たちは自宅で勉強できるのに、なぜ大学に行くのでしょう? それは彼が科目をよく知っている人々から専門の指示を得られると思っているからです。
ごくごく稀に、どんな大学にも行かない熟知した人がいます。そのような例外はあります。 あらゆる規則が例外を認めます。神は皆の中にいます。
もし、探求者が人の助けは必要ないと感じているならば、彼は単独で試みることをおおいに歓迎します。しかし、探求者が賢明であり、ただ歩いて、つまずいたりする代わりに目的地に速く到達したいなら、グルの助けは考慮に値することは確かです。
私がロンドンにいるとしましょう。 私はニューヨークが存在していることを知っていて、そこに帰らなければなりません。
私がそこに到着するために何が必要ですか?
飛行機とパイロットです。ニューヨークが存在するのを知っているという事実にもかかわらず、私は単独でそこに到着できません。
同様に、あなたは、神が存在するのを知っています。 あなたは神に到達したがっていますが、誰かがあなたをそこに連れていかなければなりません。
飛行機が私をニューヨークに連れて行くように、誰かがあなたの中で深い神の意識まであなたを連れてゆく必要があります。 どのように自分の神性(神)に入るかを誰かがあなたに示さなければなりません。
霊的教師はボートであなたの元にやって来ます。「こちらへどうぞ!あなたが黄金海岸に行きたいなら、私はあなたをお連れしましょう。」と、彼は言います。そのうえ、いったんあなたが私のボートに乗れば、歌うことも、踊ることも、眠ることさえできます。
しかし、私は安全に目的地へあなたをお連れします。ミレニアムに向かって、私たちは無知の海で泳いでいます。私たちが目覚めると、その海の向こう側に光と喜びの海洋の中まで泳ぎたいと思います。
目的地に私たちを安全に運ぶことができるボートをもつ船頭を知っていたら、当然私たちは彼から助けを得ようとするでしょう。
本物の霊的教師は道を熟知しており、私たちが目的地にたどり着くのを必ず助けます。彼は船頭のように、もう片方の岸まで私たちを運ぶでしょう。
例えば、外側の世界で弁護士や医師があなたを助けたら、彼はあなたに何かを請求するでしょう。
ですが、グルがあなたを目的地に連れてゆくとき、自分のために何も取らないでしょう。
彼には自身の無限の富があるので、あなたは富のかけらでさえグルに与える必要はありません。
最終的に、あなたはそれが全員の等しい富であることを理解するでしょう。彼の目的地、あなたの目的地、皆の目的地は同じです: 無限の平和、光、至福。
霊的教師は言います「あなたは空腹です。私には、あなたが求める神の食物の無限供給がありますから、あなたからもらう必要はありません。」
人間の人生では、人々は誰かが助けを受けるのを見かけるなら、彼らはこう言うかもしれません。「なんだ、彼はそんなことも自力で出来ないのか」
しかし、本当に神に飢えている人はこう言うでしょう。「食物をくれるんなら誰だって構わない。私は腹がペコペコなんだ。いますぐに食べたい。彼が差し出している食物は、私が一生かけて求めてきた食物だ。彼が本当の神性を私に配給している限り、食べさせてもらおう。」
もし、あなたが師を受け入れることによって、自分の責任を避けていると感じているなら誤解しています。その時、あなたは師と自分を切り離しています。
非常に熱心な弟子は他人であるように感じません。彼らは私との一体性を感じます。彼らは自分ら以上に私にもっと大きな能力(キャパシティ)があるのを感じます。
それで、彼らは自分達の小さな能力を私の大きな能力と同一視します。彼らが私の能力につながると、私の内にすべての愛と思いやりを見て、それが彼ら自身の能力であると感じます。
あなたは師との一体性を感じていることによってのみ真の進歩を遂げられます。あなたが、師のハートへの侵入者、見慣れぬ人であると感じるのなら、あるいは、それどころかただのお客であると思っているなら、あなたが霊的生活で成功することはないでしょう。
どれだけの間、あなたはお客として友人のところに滞在できますか?
数日、あるいは1カ月もすれば、あなたは立ち去らなければならないでしょう。あなたが友人として訪問しているように感じてたとしても、なお立ち去ることができます。
しかし、彼の家があなたの家であると感じているなら、あなたは永遠に安心です。弟子と師がお互いのハートで安心を見出したときに、伝授の時が急接近します。
師が誰かに伝授するとき、彼は生命力のひとしずくをその人に与えます。伝授の時、グルは霊的生活で探求者を助けるために最善をつくし、彼方の最高領域に弟子を連れていくために全身全霊を捧げることを個々の探求者とスープリームへ厳粛に誓います。
師はスープリームに言います「私はこの子をあなたの元へ連れてゆくまで見捨てることはありません。私のゲームに終わりはありません。」
そして、彼は弟子に言います「これから先、あなたは私を頼ることができます。あなたは自分のように私を思うことができます。」
グルは様々な方法で弟子に伝授できます。彼はインドの伝統的な方法で、弟子が瞑想している間に伝授を行えます。彼は弟子が眠っていたり、通常の意識であっても静かで落ち着いていれば伝授できます。
グルは視線のみで弟子に伝授できます。 彼は弟子を見つめます。すると、ただちにその人は伝授されますが誰も気が付きません。
師は弟子の身体(頭、胸、その他)に触れる物理的な伝授も行えます。このとき、彼は身体的な意識に伝授が行われたと思わせます。
ですが、この身体的な行為と共に、グルは弟子をサイキックな方法で伝授するでしょう。この時、グルは弟子の魂を知覚して働きかけます。
伝授はオカルトの過程や夢でも行えます。どんな霊的教師とも接触できないとき、神御自身があなたの夢や瞑想の間、非常に明瞭な人間の形を取ってあなたに伝授することもありえます。しかし、これは非常に稀です。 たいてい、伝授は師によって行われます。
弟子にとって何が最適なのかを私が熟知しているので、彼らは私に外面的に伝授するよう頼む必要がありません。すなわち、私は外側の伝授が彼らの内側の進歩を促進させるかどうかわかっています。
ごく頻繁に、私は第3の目を通して弟子に伝授します(私が最も効果的だと確信している方法)。至高の意識に私がいるときに、多くの人が私の目を観察しました。
その時、私の通常の目は、第3の目と完全に1つになります。それから、通常の目は第3の目から無限の光を受け取ります。そして、私の目から放射されるこの神聖な光は志願者の目に入ります。ただちに、光が志願者の全身に入り、頭のてっぺんから足のつま先まで浸透します。
そして、私は光(私自身の光、スープリームの光)が弟子の無知を照らし出すのを目撃します。すると無知は感謝します。「今、私はあなたのものになります。今、あなたは私を御自身のものにしました。私は永遠にあなたのものになるでしょう。」と、それは示します。
その時、私は弟子の無知を照らし出す責任が生じます。そして、弟子には私が地球でスープリームを表すのを助ける責任が生じます。
私があなたに伝授したというだけで、あなたが出歩いて他の誰かに伝授できるというわけではありません。
もし、私があなたに真理を伝えたとしても、それはあなたが今、他の誰かに伝えられると言うことではありません。
ある師が誰かに伝授して、次にその弟子が他の誰かに伝授し続けて、それからその人が他の人へと、家系のように続いているということをごく頻繁に耳にします。
しかし、この種の伝授は無価値です。真の伝授は神を悟った師によるものでなくてはなりません。 それは代理人を通しては行えません。師がオカルトのレベルで弟子に直接伝授するスピリチュアル・パワーを持っているなら、それは問題ありません。
しかし、それでも彼が初心者の弟子を通して誰かに伝授できると言うのであれば、その種の伝授は馬鹿げています。
インドの霊的教師から他者に伝授するよう頼まれたと言う海外の人々を見たら、これが全く伝授ではないことを保証します: それは詐欺にすぎません。
伝授は師によって直接なされる必要があります(物理的な世界、または、内側のレベルにおいて)。
グルが弟子に伝授すると、彼は心から無条件に弟子を受け入れます。弟子が伝授の後にグルにケチをつけて立ち去っても、グルはいつまでも弟子を通して行動するでしょう。
弟子はある他のグルの元へ行くことさえあるかもしれませんが、彼を伝授したグルは、内側の世界でその探求者を助けるでしょう。
そして、新しいグルが十分に高潔であるなら、彼はオリジナルのグルがその弟子を通して行動するのを許します。オリジナルのグルとの物理的つながりは断ち切られ、グルが物理的に弟子に会うことはありませんが、彼はスープリームに約束したので必ず霊的に彼を助けるでしょう。
弟子がいかなる他のグルのところへも行かず、真実の道を踏み外したとしても、それでも、彼のオリジナルのグルは彼の約束を守らなければなりません。
弟子は肉体化(人生)の1、2回、または多くの肉体化でさえも霊的な道を踏み外すかもしれませんが、彼が霊的な道に復帰するまで、グルは絶えず弟子を見守り、活発に彼を助ける機会を待っています(肉体で在るのか高次領域に在るかに関係なく)。
グルは離れているようにみえますが、彼が弟子に(および弟子の中のスープリーム)約束したので、グルは弟子を目的地に連れて行く機会を無期限に待っています。
かつて私の道に誠実に従っていた弟子の何人かが本当に私のもとを去ってもいます。しかし、もし彼らが内側の世界で私の弟子であるか、私が既に彼らを本当の弟子として受け入れていたなら、そのとき私は彼らを忘れたりはしません。
彼らは切望の人生に戻るために1、2、5または6回の肉体化を取るかもしれませんが、どれくらいかかっても私は彼らの神実現に向けて手助けするつもりです。
弟子の魂と神にした約束のため、私は弟子自身以上に各弟子に責任があります。
しかし一方、私がその責任を取ることを誰が許すのでしょう?
弟子です! 私は弟子の思うままにいます。 たった今、彼らにとって神とはよくわからないアイデアです。したがって、彼らは今日、私を受け入れるかもしれませんし、明日、私から離れるかもしれません。 外側の世界において、弟子は私から離れるかもしれません。
しかし、スープリームが彼の光をその人に送ることを願う限り、私はそうしなければなりません。私たちの道を立ち去った後に、弟子はどんな道にも従わないか、またはある他の道に行くかもしれません。
しかし、いったん誰かを受け入れたならば、その人が他者の手の内にあるとスープリームが私に告げるまで私は彼に責任があります。
非常に高い序列の師が、あなたには彼との永遠の関係があると言うとき、彼はスープリーム(および、あなたの魂)との完全一致の強さについて話しています。 彼は、あなたがいつも彼の内側の指導の下にあることを知っています。
そして、あなたが高い理解を得たならば、スープリームの意識が師が表現する地球の意識と同じであることがわかるでしょう。本物の霊的教師はスープリームの無限の意識を具現化して地球の意識を表します。師が永遠の関係について話すとき、この関係は相互の承認によるものです。
師は次のようなことは口にしません「あなたがそれを意識しているか否かに関係なく、私はあなたとの永遠の絆を保ちます。そして、私たちは永遠に1つであるでしょう。」
そうではありません、師に弟子とのこの永遠の関係を確立する能力が本当にあるならば、彼には弟子に「師がそれをしたのだ」と感じさせる能力があります。師はこのメッセージを探求者の魂に提供します。
そして、探求者は師との内の繋がりが永遠に続くと感じます。そのとき師は最大の寛容さ、思いやり、慈悲、感謝、気高さをもって、心から弟子を永久に受け入れます。
そして、弟子にも師に対して同様の感覚があるでしょう。彼は、師が別々の実体ではなくて、彼の完全な自己であると感じるでしょう。彼は、それを非常に高貴に感じます。彼が師と呼ぶものは彼自身の最も輝かしい部分です。
こうした関係で彼にその種の感覚があるならば、師と弟子との間に永遠の関係が始まります。師と弟子との永遠の絆は悟った師の場合においてのみ有意義です。
もし、師が完全に悟っていないならば、彼は弟子を騙しているだけです。
神を悟っていないにもかかわらず、多くの師が軽々しく口にします。
「おお、私たちには、永遠の絆があります。私は肉体を去った後でさえ、あなたの面倒をみます。」
このタイプの師が肉体を去ると、弟子は絶えず師に泣き叫ぶかもしれませんが、全く応答を得ないでしょう。
彼が物理的な世界にいるときでさえ、このタイプの師は無駄でありえます。彼は偽りの約束をするだけです。
伝授の主な目的は、魂を前面に導くことです。伝授がなければ、肉体、生気、マインド、ハートの浄化は完全になりえません。伝授がなければ、最高の目標は決して成し遂げることが出来ません。
私のそばで心を込めてスープリームに専念している人々は、伝授の瞬間に肉体、生気、マインド、魂の開花を実際に感じています。この伝授の開花は実際は伝授以上のものです。
それは弟子自身の内側の神性の発露です。その瞬間、彼はグルと完全に1つになっているのを感じます。彼は、グルは自分なしでは存在せず、自分はグルなしでは存在しないと感じます。グルと弟子は、各自が充足し合います。
そして、この充足がスープリームから直接やって来るのを感じます。弟子がグルから学ぶ最大級の秘密はこれです: まず最初にスープリームを実現させることによってのみ彼は世界の解放を実現できます。
厳密にはイニシエーションとディクシャは意味が異なるかもしれませんが、とりあえず「伝授」ということで同義として扱います。
伝授でもその場かぎりのものもあれば、さらに別枠の伝授をうけることで、自分が伝授者になれるという2種類があるかと思います。
この伝授者になれる伝授を「アチューンメント」と呼んでいるケースも見かけます。
今回は参考資料として、故シュリ・チンモイ師の言葉をとりあげてみます。
長文になりますが、伝授ということで関連のある文章を2つまとめて掲載します。スープリームという言葉は「神」に相当する語として使用されているかと思います。
チンモイ師はインドのベンガル州の出身1931年生まれ。生粋のインド人です。十代初期に両親を亡くし、シュリ・オーロビンドのアシュラムで過ごすようになり12才で神を悟ったとされています。アシュラムを出て、長年に渡って瞑想指導に努めてきました。2007年没。
詳しいプロフィールは下のリンクでみることが可能です(日本語あり)。
今回、翻訳するうえで、ざっとHPを見たなかで知ったのですが、カルカッタのマザー・テレサと親友だったのですね。知りませんでした。
生前は日本にも何度か来日されていた親日家でもありました。
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www.yogaofsrichinmoy.com/
イニシエーション(秘儀伝授、ディクシャ、伝法灌頂など)
質問 : イニシエーションについて説明していただけますか?
シュリ・チンモイ : 私が誰かを受け入れた瞬間、私は目、手、微笑などをもってその人に伝授します。
その時、私は、高い理解を得させることを弟子に誓います。
そして、生徒は、神(Supreme)を悟ったときに神を表すための完全な道具になることを誓います。
弟子は喜んで、財産(無知)を差し出します。
しかし、それは自然に差し出さなければなりません。
あなたの富を師に差し出さなければなりません。
あなたの富とはあなたの無知のことです。
そして、師の富は彼の光です。
あなたが師の究極の富を受け取ると、限りない光の所有者になります。
平和と光はどこからやって来るのでしょう?
それは最高の源から来ます。
そして、あなたはこの平和と光を表そうとします。
私はインドの伝統的な方法で弟子に伝授していません。
私はそうしたいと思いません。 ココナッツ、一片の布またはいくらかの米を私に持ってくるよう要求しません。
ヴェーダとウパニシャッドを詠唱し、宇宙神と女神に加護を祈ることは私はやっておりません。
私にとって、それは全く必要ありません。
神が私を通して人々に伝授しています。
私の場合、誰かを本当の弟子として認めたとき、それを承認することがまさしく伝授です。
私が誰かを受け入れたならば、彼は伝授されたということです。
私が本当に彼を受け入れて、その人が本当に伝授を求めているならば、私は彼の無知を取ることを真剣に約束します。
伝授は本当の承認を意味します。
あなたが私を師として本当に認めたならば、私は本当にあなたに伝授します。
あなたの承認が誠実でないならば、そのときはあなたは伝授されません。
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師と弟子
本物の霊的教師は、神実現に達した人です。 誰もが神と1つであるのですが、本物の霊的教師は意識が神と一致しています。いつでも彼は高い意識に入って、神からメッセージを降ろすことができます。
彼が本物であるなら、師とは、心から切望し彼を信頼する探求者にとって地球の神の代理です。彼は、彼らを助けるように神から認可、または任命されました。本物の教師(本物のグル)は神御自身です。
しかし、しばしば彼は霊的教師を通して働くでしょう。師は探求者を鼓舞して、エネルギーレベルを引き上げます。
時が経つうちにスープリームの無限の恩寵を通して探求者に悟りが与えられます。
師をただの人としてみなすのであれば、あなたは見誤っています。
あなたは本物の師が身体の内側にいると感じていなければなりません。
私の弟子はなぜ私の元へやって来たのでしょう? それは私の中に彼らの本当の師(Supreme)がいるからです。彼らの中にもスープリームがいます。しかし、彼らの中のスープリームはまだ眠っています。私の中ではスープリームは完全に目覚めています。
師と弟子は同じ能力を持つ2人の友人に似ていますが、1人は眠っていて能力を表す以前に、起きるのに助けを必要としています。
グルは彼の兄弟の足に触れ、彼の頭をなでて「起きてください。もう私たちが父のために働くべき時間です。」と知らせる誰かです。
師が弟子として誰かを認めるとき、彼は自分の一部としてその人を受け入れます。弟子が不完全であるなら、師も不完全に留まります。 弟子の完成は師の完成です。 私は、いつも個はない、人格はないと言います。
私の弟子の達成が天国、あるいは地獄へ私を連れてゆきます。私には絶えず天国に留まる能力がありますが、私自身として彼らを受け入れたので、いつの瞬間でも彼らは容易に私を地獄まで引っ張ることができます。
本物の霊的教師は弟子の内側の神性を弟子のハートの奥から前面にもたらそうとします。 彼は弟子のハートの扉をノックして、私たちが魂と呼ぶ神の子を喚起します。
彼は魂に告げます。「あなたは、家族のメンバー(肉体、生気、マインド)の面倒をみるのです。彼らは絶えず混乱しています。今、彼らに新しい人生、新しい意義、新しい目的を与えてください。」
人生に愛、真理、光がないならば、無意味で不毛であると彼の弟子に感じさせるのは霊的教師の仕事です。
霊的教師が彼の霊的な子供のためにする中で最も重要なことは、彼らに広大な何かを自覚させることです。
彼ら自身の内側の無限は神御自身以外の何でもありません。私たちのハートの中には最高の先験的な真理がありますが、残念ながら私たちはまだそれを発見していません。
ですから、私は魂の住処、ハートで瞑想するように弟子に頼みます。 最終的に、彼らはどうやって魂に接触するかを学び、その指示に耳を傾け始めます。 その時、彼らは最高、最深の自己を発見することに向かって本当に進歩し始めます。
既に開発されている人であれば、すなわち、過去生で霊的生活を実践していて、自分の内の存在の指示を聞く立場にあるならば、彼にとって霊的教師を持つのは絶対に必要なことではありません。
その場合、彼は内に深く入って心から霊的生活を実践するだけです。 師の助けを求めないので、彼は完全に自分と神の限りない恩寵に頼らなければなりません。
しかし、私たちは霊的修練が非常に困難であることを知る必要があります。 稀なケースとして霊的教師の助けなしで神を悟った人々がいるだけです。 1日、1カ月、1年、10年、彼らが神を悟る以前に、ほとんどの霊的教師たち自身が誰かから助けを得ました。
私たちが外側の知識を得るのに外側の教師を必要とするように、特に初期段階では霊的教師が霊的生活で私たちを助け導く必要があります。
さもなければ、私たちの進歩は非常に遅く、不確かなものになるでしょうし、ひどく混乱するようになるかもしれません。
私たちは高い経験を得たとしても、それを適切に理解できないかもしれません。疑念が私たちの心をおおい隠すかもしれません。
そして、私たちは言います「私は一般人にすぎません。したがって、どうすればこの種の体験をもつことができるのですか?きっと私は騙されているのだろう。」
あるいは、私たちは友人に話します。すると彼らは言います「それはすべて精神病による幻覚症状だよ。霊的生活を忘れなさい。」
しかし、現実が何であるかを知っている誰かがいれば、「馬鹿な真似をしないでください。あなたが体験したことが真実であるのは明らかです。」と言うでしょう。 師は探求者を励まし、奮い立たせて、彼の体験を適切に説明するでしょう。
一方、探求者が瞑想で不適切なことをしていれば、師は彼の誤りを正す立場にあります。
私たちは自宅で勉強できるのに、なぜ大学に行くのでしょう? それは彼が科目をよく知っている人々から専門の指示を得られると思っているからです。
ごくごく稀に、どんな大学にも行かない熟知した人がいます。そのような例外はあります。 あらゆる規則が例外を認めます。神は皆の中にいます。
もし、探求者が人の助けは必要ないと感じているならば、彼は単独で試みることをおおいに歓迎します。しかし、探求者が賢明であり、ただ歩いて、つまずいたりする代わりに目的地に速く到達したいなら、グルの助けは考慮に値することは確かです。
私がロンドンにいるとしましょう。 私はニューヨークが存在していることを知っていて、そこに帰らなければなりません。
私がそこに到着するために何が必要ですか?
飛行機とパイロットです。ニューヨークが存在するのを知っているという事実にもかかわらず、私は単独でそこに到着できません。
同様に、あなたは、神が存在するのを知っています。 あなたは神に到達したがっていますが、誰かがあなたをそこに連れていかなければなりません。
飛行機が私をニューヨークに連れて行くように、誰かがあなたの中で深い神の意識まであなたを連れてゆく必要があります。 どのように自分の神性(神)に入るかを誰かがあなたに示さなければなりません。
霊的教師はボートであなたの元にやって来ます。「こちらへどうぞ!あなたが黄金海岸に行きたいなら、私はあなたをお連れしましょう。」と、彼は言います。そのうえ、いったんあなたが私のボートに乗れば、歌うことも、踊ることも、眠ることさえできます。
しかし、私は安全に目的地へあなたをお連れします。ミレニアムに向かって、私たちは無知の海で泳いでいます。私たちが目覚めると、その海の向こう側に光と喜びの海洋の中まで泳ぎたいと思います。
目的地に私たちを安全に運ぶことができるボートをもつ船頭を知っていたら、当然私たちは彼から助けを得ようとするでしょう。
本物の霊的教師は道を熟知しており、私たちが目的地にたどり着くのを必ず助けます。彼は船頭のように、もう片方の岸まで私たちを運ぶでしょう。
例えば、外側の世界で弁護士や医師があなたを助けたら、彼はあなたに何かを請求するでしょう。
ですが、グルがあなたを目的地に連れてゆくとき、自分のために何も取らないでしょう。
彼には自身の無限の富があるので、あなたは富のかけらでさえグルに与える必要はありません。
最終的に、あなたはそれが全員の等しい富であることを理解するでしょう。彼の目的地、あなたの目的地、皆の目的地は同じです: 無限の平和、光、至福。
霊的教師は言います「あなたは空腹です。私には、あなたが求める神の食物の無限供給がありますから、あなたからもらう必要はありません。」
人間の人生では、人々は誰かが助けを受けるのを見かけるなら、彼らはこう言うかもしれません。「なんだ、彼はそんなことも自力で出来ないのか」
しかし、本当に神に飢えている人はこう言うでしょう。「食物をくれるんなら誰だって構わない。私は腹がペコペコなんだ。いますぐに食べたい。彼が差し出している食物は、私が一生かけて求めてきた食物だ。彼が本当の神性を私に配給している限り、食べさせてもらおう。」
もし、あなたが師を受け入れることによって、自分の責任を避けていると感じているなら誤解しています。その時、あなたは師と自分を切り離しています。
非常に熱心な弟子は他人であるように感じません。彼らは私との一体性を感じます。彼らは自分ら以上に私にもっと大きな能力(キャパシティ)があるのを感じます。
それで、彼らは自分達の小さな能力を私の大きな能力と同一視します。彼らが私の能力につながると、私の内にすべての愛と思いやりを見て、それが彼ら自身の能力であると感じます。
あなたは師との一体性を感じていることによってのみ真の進歩を遂げられます。あなたが、師のハートへの侵入者、見慣れぬ人であると感じるのなら、あるいは、それどころかただのお客であると思っているなら、あなたが霊的生活で成功することはないでしょう。
どれだけの間、あなたはお客として友人のところに滞在できますか?
数日、あるいは1カ月もすれば、あなたは立ち去らなければならないでしょう。あなたが友人として訪問しているように感じてたとしても、なお立ち去ることができます。
しかし、彼の家があなたの家であると感じているなら、あなたは永遠に安心です。弟子と師がお互いのハートで安心を見出したときに、伝授の時が急接近します。
師が誰かに伝授するとき、彼は生命力のひとしずくをその人に与えます。伝授の時、グルは霊的生活で探求者を助けるために最善をつくし、彼方の最高領域に弟子を連れていくために全身全霊を捧げることを個々の探求者とスープリームへ厳粛に誓います。
師はスープリームに言います「私はこの子をあなたの元へ連れてゆくまで見捨てることはありません。私のゲームに終わりはありません。」
そして、彼は弟子に言います「これから先、あなたは私を頼ることができます。あなたは自分のように私を思うことができます。」
グルは様々な方法で弟子に伝授できます。彼はインドの伝統的な方法で、弟子が瞑想している間に伝授を行えます。彼は弟子が眠っていたり、通常の意識であっても静かで落ち着いていれば伝授できます。
グルは視線のみで弟子に伝授できます。 彼は弟子を見つめます。すると、ただちにその人は伝授されますが誰も気が付きません。
師は弟子の身体(頭、胸、その他)に触れる物理的な伝授も行えます。このとき、彼は身体的な意識に伝授が行われたと思わせます。
ですが、この身体的な行為と共に、グルは弟子をサイキックな方法で伝授するでしょう。この時、グルは弟子の魂を知覚して働きかけます。
伝授はオカルトの過程や夢でも行えます。どんな霊的教師とも接触できないとき、神御自身があなたの夢や瞑想の間、非常に明瞭な人間の形を取ってあなたに伝授することもありえます。しかし、これは非常に稀です。 たいてい、伝授は師によって行われます。
弟子にとって何が最適なのかを私が熟知しているので、彼らは私に外面的に伝授するよう頼む必要がありません。すなわち、私は外側の伝授が彼らの内側の進歩を促進させるかどうかわかっています。
ごく頻繁に、私は第3の目を通して弟子に伝授します(私が最も効果的だと確信している方法)。至高の意識に私がいるときに、多くの人が私の目を観察しました。
その時、私の通常の目は、第3の目と完全に1つになります。それから、通常の目は第3の目から無限の光を受け取ります。そして、私の目から放射されるこの神聖な光は志願者の目に入ります。ただちに、光が志願者の全身に入り、頭のてっぺんから足のつま先まで浸透します。
そして、私は光(私自身の光、スープリームの光)が弟子の無知を照らし出すのを目撃します。すると無知は感謝します。「今、私はあなたのものになります。今、あなたは私を御自身のものにしました。私は永遠にあなたのものになるでしょう。」と、それは示します。
その時、私は弟子の無知を照らし出す責任が生じます。そして、弟子には私が地球でスープリームを表すのを助ける責任が生じます。
私があなたに伝授したというだけで、あなたが出歩いて他の誰かに伝授できるというわけではありません。
もし、私があなたに真理を伝えたとしても、それはあなたが今、他の誰かに伝えられると言うことではありません。
ある師が誰かに伝授して、次にその弟子が他の誰かに伝授し続けて、それからその人が他の人へと、家系のように続いているということをごく頻繁に耳にします。
しかし、この種の伝授は無価値です。真の伝授は神を悟った師によるものでなくてはなりません。 それは代理人を通しては行えません。師がオカルトのレベルで弟子に直接伝授するスピリチュアル・パワーを持っているなら、それは問題ありません。
しかし、それでも彼が初心者の弟子を通して誰かに伝授できると言うのであれば、その種の伝授は馬鹿げています。
インドの霊的教師から他者に伝授するよう頼まれたと言う海外の人々を見たら、これが全く伝授ではないことを保証します: それは詐欺にすぎません。
伝授は師によって直接なされる必要があります(物理的な世界、または、内側のレベルにおいて)。
グルが弟子に伝授すると、彼は心から無条件に弟子を受け入れます。弟子が伝授の後にグルにケチをつけて立ち去っても、グルはいつまでも弟子を通して行動するでしょう。
弟子はある他のグルの元へ行くことさえあるかもしれませんが、彼を伝授したグルは、内側の世界でその探求者を助けるでしょう。
そして、新しいグルが十分に高潔であるなら、彼はオリジナルのグルがその弟子を通して行動するのを許します。オリジナルのグルとの物理的つながりは断ち切られ、グルが物理的に弟子に会うことはありませんが、彼はスープリームに約束したので必ず霊的に彼を助けるでしょう。
弟子がいかなる他のグルのところへも行かず、真実の道を踏み外したとしても、それでも、彼のオリジナルのグルは彼の約束を守らなければなりません。
弟子は肉体化(人生)の1、2回、または多くの肉体化でさえも霊的な道を踏み外すかもしれませんが、彼が霊的な道に復帰するまで、グルは絶えず弟子を見守り、活発に彼を助ける機会を待っています(肉体で在るのか高次領域に在るかに関係なく)。
グルは離れているようにみえますが、彼が弟子に(および弟子の中のスープリーム)約束したので、グルは弟子を目的地に連れて行く機会を無期限に待っています。
かつて私の道に誠実に従っていた弟子の何人かが本当に私のもとを去ってもいます。しかし、もし彼らが内側の世界で私の弟子であるか、私が既に彼らを本当の弟子として受け入れていたなら、そのとき私は彼らを忘れたりはしません。
彼らは切望の人生に戻るために1、2、5または6回の肉体化を取るかもしれませんが、どれくらいかかっても私は彼らの神実現に向けて手助けするつもりです。
弟子の魂と神にした約束のため、私は弟子自身以上に各弟子に責任があります。
しかし一方、私がその責任を取ることを誰が許すのでしょう?
弟子です! 私は弟子の思うままにいます。 たった今、彼らにとって神とはよくわからないアイデアです。したがって、彼らは今日、私を受け入れるかもしれませんし、明日、私から離れるかもしれません。 外側の世界において、弟子は私から離れるかもしれません。
しかし、スープリームが彼の光をその人に送ることを願う限り、私はそうしなければなりません。私たちの道を立ち去った後に、弟子はどんな道にも従わないか、またはある他の道に行くかもしれません。
しかし、いったん誰かを受け入れたならば、その人が他者の手の内にあるとスープリームが私に告げるまで私は彼に責任があります。
非常に高い序列の師が、あなたには彼との永遠の関係があると言うとき、彼はスープリーム(および、あなたの魂)との完全一致の強さについて話しています。 彼は、あなたがいつも彼の内側の指導の下にあることを知っています。
そして、あなたが高い理解を得たならば、スープリームの意識が師が表現する地球の意識と同じであることがわかるでしょう。本物の霊的教師はスープリームの無限の意識を具現化して地球の意識を表します。師が永遠の関係について話すとき、この関係は相互の承認によるものです。
師は次のようなことは口にしません「あなたがそれを意識しているか否かに関係なく、私はあなたとの永遠の絆を保ちます。そして、私たちは永遠に1つであるでしょう。」
そうではありません、師に弟子とのこの永遠の関係を確立する能力が本当にあるならば、彼には弟子に「師がそれをしたのだ」と感じさせる能力があります。師はこのメッセージを探求者の魂に提供します。
そして、探求者は師との内の繋がりが永遠に続くと感じます。そのとき師は最大の寛容さ、思いやり、慈悲、感謝、気高さをもって、心から弟子を永久に受け入れます。
そして、弟子にも師に対して同様の感覚があるでしょう。彼は、師が別々の実体ではなくて、彼の完全な自己であると感じるでしょう。彼は、それを非常に高貴に感じます。彼が師と呼ぶものは彼自身の最も輝かしい部分です。
こうした関係で彼にその種の感覚があるならば、師と弟子との間に永遠の関係が始まります。師と弟子との永遠の絆は悟った師の場合においてのみ有意義です。
もし、師が完全に悟っていないならば、彼は弟子を騙しているだけです。
神を悟っていないにもかかわらず、多くの師が軽々しく口にします。
「おお、私たちには、永遠の絆があります。私は肉体を去った後でさえ、あなたの面倒をみます。」
このタイプの師が肉体を去ると、弟子は絶えず師に泣き叫ぶかもしれませんが、全く応答を得ないでしょう。
彼が物理的な世界にいるときでさえ、このタイプの師は無駄でありえます。彼は偽りの約束をするだけです。
伝授の主な目的は、魂を前面に導くことです。伝授がなければ、肉体、生気、マインド、ハートの浄化は完全になりえません。伝授がなければ、最高の目標は決して成し遂げることが出来ません。
私のそばで心を込めてスープリームに専念している人々は、伝授の瞬間に肉体、生気、マインド、魂の開花を実際に感じています。この伝授の開花は実際は伝授以上のものです。
それは弟子自身の内側の神性の発露です。その瞬間、彼はグルと完全に1つになっているのを感じます。彼は、グルは自分なしでは存在せず、自分はグルなしでは存在しないと感じます。グルと弟子は、各自が充足し合います。
そして、この充足がスープリームから直接やって来るのを感じます。弟子がグルから学ぶ最大級の秘密はこれです: まず最初にスープリームを実現させることによってのみ彼は世界の解放を実現できます。
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久しぶりに、ニサルガダッタ・マハラジのアイ・アム・ザットを引っ張り出して読んでみました。2005年に出版されて、すぐに購入したのではないかと思いますが、当時はなかなか読み進めることが出来なかったような覚えがあります。
------------------
I AM THAT
ニサルガダッタ・マハラジとの対話 より引用
モーリス・フリードマン [マラティー語からの英訳]
スダカール・S・ディクシット [編集]
福間 巌 [翻訳]
質問者: 私たちは偉大なアヴァターラ、世界の救済者たちについて聞きました。
マハラジ: 彼らは救っただろうか?
彼らは来ては去っていった。
そして世界はまだとぼとぼ歩きを続けている。
もちろん、彼らには大きな達成もあり、人類の精神に新たな次元を切り開いた。
だが、世界の救済を語ることは誇張だ。
質問者: 世界の救済はないのでしょうか?
マハラジ: どの世界をあなたは救いたいのだね?
あなた自身が投影した世界だろうか?
それは自分で救うがいい。
私の世界? 私の世界を見せてくれるというならば、私がなんとかしよう。
救おうと、救うまいと、私は私から分離した世界になど気づいてはいない。
世界を救うなど、大きなお世話ではないか。
世界が必要としていることは、あなたからの救済なのかね?
一度頭を冷やして、そこに救うべき何かがあるのかどうかよく見てみるといい。
===============
質問者: もし私が救われれば、世界も救われるということでしょうか?
マハラジ: 概して世界は助けを必要としない。
人は過ちを犯して不幸となる。
それが気づき、ジニャーニの意識に入ったとき、それは正される。
それが彼の本性なのだ。
質問者: 私たちはいわゆる霊的成長を観察することができます。
ひとりの利己的な人が宗教的になり、己を制御し、思考と感情を改め、霊的修行をおさめて真我を実現します。
このような進歩は因果律に支配されているのでしょうか?
あるいはただの偶然なのでしょうか?
マハラジ: 私の視点から見れば、すべてはひとりでに起こる。
まったく、自発的に。
だが、人はある動機のために、目的に向かって働いていると想像する。
彼は常に見返りを考えて、そのために闘うのだ。
質問者: 粗野で未発達の者は、見返りなしには働きません。
彼に動機を与えることは間違いでしょうか?
マハラジ: どちらにしても、彼は自分のための見返りを見つけ出すだろう。
彼は成長することが意識の本性だということを知らない。
動機から動機へと移行し、自分の欲望を満たすためにグルたちを追いかけまわすのだ。
存在の法則によって源へと戻る道を見出したとき、彼はすべてを放棄する。
なぜなら、世界への興味はもはやなくなっているからだ。
彼は何も欲しない。他者からも、彼自身からも。
彼はすべてに対して死に、すべてとなる。
何も望まず、何もしない。これが真の創造だ!
自己のハートの中で宇宙が現れては消え去るのを見ることは驚きだ。
=================
質問者: 真我の実現とは何でしょうか?
誰が実現した人なのでしょうか?
ジニャーニ(賢者)は何によって認識できるのでしょうか?
マハラジ: ジニャーナ(真理の知識)特有の証拠というものはない。
無知だけが認識できる。ジニャーナは認識できない。
ジニャーニは自分が何か特別な存在だとは主張しない。
自分自身の偉大さ、特別さを宣言する者はジニャーニではない。
彼らは実現に向けての何か特別な発達を、実現と考え違いをしたのだ。
ジニャーニには、自分がジニャーニだと宣言しようとする意図はない。
彼は彼自身を普通と考え、彼の真の本性に誠実なのだ。
自分自身を万能の、全知全能の神として宣言することは、明白なる無知のしるしだ。
=================
質問者: ただ聖者や賢者のそばで生活することだけで解放へ導き、ほかに何の手段もないというのが、インドの霊的な伝統の一部です。
なぜあなたは、人々があなたのそばで生活できるようにアーシュラムを組織しないのでしょうか?
マハラジ: ある組織を設立したとたん、私はその囚人となる。
実際問題として、私はすべての人に開かれている。
共有の屋根や食事が人々をより歓迎するわけではない。
「近くに生きること」は、同じ空気を呼吸するという意味ではない・・・
================
質問者: クリシュナムルティは、グルは必要ないと言っています。
マハラジ: 誰かが至高の実在と、それへの道について語らなければならないのだ。
クリシュナムルティがしていることは、ほかの何ものでもない。
ある意味では彼は正しい。
ほとんどのいわゆる弟子たちは、彼らのグルを信頼していないのだ。
彼らはグルにそむき、グルを放棄してしまう。
そのような弟子たちにとってはグルを持たないほうが、そして導きを得るために、ただ内面を見ることにほうがどれだけ良かったか知れないのだ。
生きたグルを見出すことは希少な機会であり、大いなる責任でもある。
これらのことを軽く扱ってはならないのだ。
あなたたちは天国を買おうとやっきになって、値段の額を支払えばグルがそれを与えてくれると想像している。
わずかばかりを捧げて、多くを要求する売買契約を求めているのだ。
あなたが騙しているのは、ほかでもないあなた自身なのだ。
================
質問者: 真我を知る人すべてがグルとなるのでしょうか、それとも他者を実在に導くことができなくても、実在を知る人となることが出来るのでしょうか?
マハラジ: もしあなたが教えることを知っているなら、あなたは知っていることを教えることが出来るのだ。
ここでは賢者としての状態と、教師としての状態はひとつだ。
だが、絶対的な実在はその両方を超えている。
自称グルは成熟や努力、功績や達成、運命や恩寵などについて話すだろう。
これらすべては単なる精神的構造であり、耽溺した精神の投影だ。
助ける代わりにそれらは妨害するのだ。
質問者: 誰にしたがい、誰を疑うべきかをどのようにして知るのでしょうか?
マハラジ: あなたが確信するまで、すべてを疑いなさい。
真のグルはけっしてあなたに屈辱を与えたりはしない。
また、決してあなたをあなた自身から遠ざけたりはしないだろう。
彼は生来の完全性という事実へとあなたを絶え間なく連れ戻し、内面を探求するように勇気づけるだろう。
彼はあなたが何も必要ないことを知っている。
そしてあなたに思い出させることに、決して飽きたりはしない。
自称グルは弟子よりも彼自身に関心があるのだ。
=================
質問者: あなたは、数多くの自称グルがいるが、真のグルは非常に稀だと言われました。
自らを真我を実現したと想像している多くのジニャーニ(知者)がいます。
しかし、彼らが持っているのは本からの知識と高い自己評価だけです。
ときおり、彼らは人々に感銘を与え、魅了し、弟子を引き付けます。
そして役に立たない修練によって彼らの時間を浪費させるのです。
何年か経って弟子が自分自身を評価したとき、何の変化もなかったことを見出し、彼が師に不平を訴えると、努力が足りないのだという通常の叱責を受けるのです。
責任は弟子のハートの愛と信頼の欠如にあると非難されます。
ところが実際には弟子を受け入れ、彼らの希望を向上させようとしないグルのほうに責任があるのです。
そのようなグルからどうやって自分を守るのでしょうか?
マハラジ: なぜそれほどまで他者に関心を持つのかね?
グルが誰であろうとも、もし彼が良き信仰のもとに行為し、粋なハートを持っているなら、弟子たちに何の害も与えることはないだろう。
もし何の進展も見られないのなら、過失は弟子のほうにあるのだ。
彼らの怠惰と自己統御の欠如がそれだ。
一方、もし弟子が誠実で、サーダナ(修練)に対して知的で、熱心に取り組んでいるなら、彼はもっと遠くへ彼を連れていける、より的確な師に必ず出会うことになる。
あなたの質問は三つの偽りの仮定から出てきたものだ。
そのひとつ目は、人は他者との関わりを必要とするということ。
二つ目は、人は他の人を評価できるということ。
三つ目は、弟子の進歩はグルの仕事であり、責任であるということだ。
実際には、グルの役割とはただ指導し、勇気づけることだけなのだ。
弟子は完全に彼自身に責任があるのだ。
=================
マハラジ:・・・正しい師のもとでは、弟子は記憶し服従することではなく、学ぶことを学んでいく。
サットサン、すなわち聖者との交際は鋳型にはめるのではなく、解放するのだ。
あなたを依存させるすべてに気をつけなさい。
いわゆる「師の明け渡し」はほとんどの場合、悲劇でなければ、良くても失望に終わる。
幸運にも、誠実な探求者は体験からより賢明になって、巻き込まれる前に自分を危険から救うのだ。
==================
質問者: あなたが到達したという至高の実在とは何だったのでしょうか?
マハラジ: 私はもはや騙されない。
それだけだ。私は世界をつくり出し、そこに住んでいた
--もはやそうすることはないのだ。
====================
質問者: 私は善と悪の問題をまず解決するべきではないでしょうか?
マハラジ: 人々は快いことを善と見なし、苦しいことを悪と見なすのだ。
質問者: ええ、私たち普通の人々にとってはそのとおりです。
しかし、あなたが統合されたレベルから見たときはどうでしょう?
あなたにとっては何が善で、何が悪なのでしょうか?
マハラジ: 苦しみを増長することが悪であり、それを取り除くことが善だ。
==================
質問者: 非常に悪い人でもあなたの恩寵を得るのでしょうか?
マハラジ: 私は誰も悪い人を知らない。
私はただ私自身を知っているだけだ。
私はいかなる聖者も罪人も知らない。
ただ生きる存在を見るだけだ。
私は恩寵を施したりはしない。
私には与えるものは何もないし、拒むものもない。
あなたたちは等しい量を既に持っているのだ。
ただあなたの豊かさに気づきなさい。
そしてそれらを充分利用するがいい。
私からの恩寵を必要とするかぎり、あなたは私の戸口でそれを乞うことになるのだ。
私があなたから恩寵を乞うことは決してない。
私たちは分離してなどいない。実在は共有のものだ。
------------------
I AM THAT
ニサルガダッタ・マハラジとの対話 より引用
モーリス・フリードマン [マラティー語からの英訳]
スダカール・S・ディクシット [編集]
福間 巌 [翻訳]
質問者: 私たちは偉大なアヴァターラ、世界の救済者たちについて聞きました。
マハラジ: 彼らは救っただろうか?
彼らは来ては去っていった。
そして世界はまだとぼとぼ歩きを続けている。
もちろん、彼らには大きな達成もあり、人類の精神に新たな次元を切り開いた。
だが、世界の救済を語ることは誇張だ。
質問者: 世界の救済はないのでしょうか?
マハラジ: どの世界をあなたは救いたいのだね?
あなた自身が投影した世界だろうか?
それは自分で救うがいい。
私の世界? 私の世界を見せてくれるというならば、私がなんとかしよう。
救おうと、救うまいと、私は私から分離した世界になど気づいてはいない。
世界を救うなど、大きなお世話ではないか。
世界が必要としていることは、あなたからの救済なのかね?
一度頭を冷やして、そこに救うべき何かがあるのかどうかよく見てみるといい。
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質問者: もし私が救われれば、世界も救われるということでしょうか?
マハラジ: 概して世界は助けを必要としない。
人は過ちを犯して不幸となる。
それが気づき、ジニャーニの意識に入ったとき、それは正される。
それが彼の本性なのだ。
質問者: 私たちはいわゆる霊的成長を観察することができます。
ひとりの利己的な人が宗教的になり、己を制御し、思考と感情を改め、霊的修行をおさめて真我を実現します。
このような進歩は因果律に支配されているのでしょうか?
あるいはただの偶然なのでしょうか?
マハラジ: 私の視点から見れば、すべてはひとりでに起こる。
まったく、自発的に。
だが、人はある動機のために、目的に向かって働いていると想像する。
彼は常に見返りを考えて、そのために闘うのだ。
質問者: 粗野で未発達の者は、見返りなしには働きません。
彼に動機を与えることは間違いでしょうか?
マハラジ: どちらにしても、彼は自分のための見返りを見つけ出すだろう。
彼は成長することが意識の本性だということを知らない。
動機から動機へと移行し、自分の欲望を満たすためにグルたちを追いかけまわすのだ。
存在の法則によって源へと戻る道を見出したとき、彼はすべてを放棄する。
なぜなら、世界への興味はもはやなくなっているからだ。
彼は何も欲しない。他者からも、彼自身からも。
彼はすべてに対して死に、すべてとなる。
何も望まず、何もしない。これが真の創造だ!
自己のハートの中で宇宙が現れては消え去るのを見ることは驚きだ。
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質問者: 真我の実現とは何でしょうか?
誰が実現した人なのでしょうか?
ジニャーニ(賢者)は何によって認識できるのでしょうか?
マハラジ: ジニャーナ(真理の知識)特有の証拠というものはない。
無知だけが認識できる。ジニャーナは認識できない。
ジニャーニは自分が何か特別な存在だとは主張しない。
自分自身の偉大さ、特別さを宣言する者はジニャーニではない。
彼らは実現に向けての何か特別な発達を、実現と考え違いをしたのだ。
ジニャーニには、自分がジニャーニだと宣言しようとする意図はない。
彼は彼自身を普通と考え、彼の真の本性に誠実なのだ。
自分自身を万能の、全知全能の神として宣言することは、明白なる無知のしるしだ。
=================
質問者: ただ聖者や賢者のそばで生活することだけで解放へ導き、ほかに何の手段もないというのが、インドの霊的な伝統の一部です。
なぜあなたは、人々があなたのそばで生活できるようにアーシュラムを組織しないのでしょうか?
マハラジ: ある組織を設立したとたん、私はその囚人となる。
実際問題として、私はすべての人に開かれている。
共有の屋根や食事が人々をより歓迎するわけではない。
「近くに生きること」は、同じ空気を呼吸するという意味ではない・・・
================
質問者: クリシュナムルティは、グルは必要ないと言っています。
マハラジ: 誰かが至高の実在と、それへの道について語らなければならないのだ。
クリシュナムルティがしていることは、ほかの何ものでもない。
ある意味では彼は正しい。
ほとんどのいわゆる弟子たちは、彼らのグルを信頼していないのだ。
彼らはグルにそむき、グルを放棄してしまう。
そのような弟子たちにとってはグルを持たないほうが、そして導きを得るために、ただ内面を見ることにほうがどれだけ良かったか知れないのだ。
生きたグルを見出すことは希少な機会であり、大いなる責任でもある。
これらのことを軽く扱ってはならないのだ。
あなたたちは天国を買おうとやっきになって、値段の額を支払えばグルがそれを与えてくれると想像している。
わずかばかりを捧げて、多くを要求する売買契約を求めているのだ。
あなたが騙しているのは、ほかでもないあなた自身なのだ。
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質問者: 真我を知る人すべてがグルとなるのでしょうか、それとも他者を実在に導くことができなくても、実在を知る人となることが出来るのでしょうか?
マハラジ: もしあなたが教えることを知っているなら、あなたは知っていることを教えることが出来るのだ。
ここでは賢者としての状態と、教師としての状態はひとつだ。
だが、絶対的な実在はその両方を超えている。
自称グルは成熟や努力、功績や達成、運命や恩寵などについて話すだろう。
これらすべては単なる精神的構造であり、耽溺した精神の投影だ。
助ける代わりにそれらは妨害するのだ。
質問者: 誰にしたがい、誰を疑うべきかをどのようにして知るのでしょうか?
マハラジ: あなたが確信するまで、すべてを疑いなさい。
真のグルはけっしてあなたに屈辱を与えたりはしない。
また、決してあなたをあなた自身から遠ざけたりはしないだろう。
彼は生来の完全性という事実へとあなたを絶え間なく連れ戻し、内面を探求するように勇気づけるだろう。
彼はあなたが何も必要ないことを知っている。
そしてあなたに思い出させることに、決して飽きたりはしない。
自称グルは弟子よりも彼自身に関心があるのだ。
=================
質問者: あなたは、数多くの自称グルがいるが、真のグルは非常に稀だと言われました。
自らを真我を実現したと想像している多くのジニャーニ(知者)がいます。
しかし、彼らが持っているのは本からの知識と高い自己評価だけです。
ときおり、彼らは人々に感銘を与え、魅了し、弟子を引き付けます。
そして役に立たない修練によって彼らの時間を浪費させるのです。
何年か経って弟子が自分自身を評価したとき、何の変化もなかったことを見出し、彼が師に不平を訴えると、努力が足りないのだという通常の叱責を受けるのです。
責任は弟子のハートの愛と信頼の欠如にあると非難されます。
ところが実際には弟子を受け入れ、彼らの希望を向上させようとしないグルのほうに責任があるのです。
そのようなグルからどうやって自分を守るのでしょうか?
マハラジ: なぜそれほどまで他者に関心を持つのかね?
グルが誰であろうとも、もし彼が良き信仰のもとに行為し、粋なハートを持っているなら、弟子たちに何の害も与えることはないだろう。
もし何の進展も見られないのなら、過失は弟子のほうにあるのだ。
彼らの怠惰と自己統御の欠如がそれだ。
一方、もし弟子が誠実で、サーダナ(修練)に対して知的で、熱心に取り組んでいるなら、彼はもっと遠くへ彼を連れていける、より的確な師に必ず出会うことになる。
あなたの質問は三つの偽りの仮定から出てきたものだ。
そのひとつ目は、人は他者との関わりを必要とするということ。
二つ目は、人は他の人を評価できるということ。
三つ目は、弟子の進歩はグルの仕事であり、責任であるということだ。
実際には、グルの役割とはただ指導し、勇気づけることだけなのだ。
弟子は完全に彼自身に責任があるのだ。
=================
マハラジ:・・・正しい師のもとでは、弟子は記憶し服従することではなく、学ぶことを学んでいく。
サットサン、すなわち聖者との交際は鋳型にはめるのではなく、解放するのだ。
あなたを依存させるすべてに気をつけなさい。
いわゆる「師の明け渡し」はほとんどの場合、悲劇でなければ、良くても失望に終わる。
幸運にも、誠実な探求者は体験からより賢明になって、巻き込まれる前に自分を危険から救うのだ。
==================
質問者: あなたが到達したという至高の実在とは何だったのでしょうか?
マハラジ: 私はもはや騙されない。
それだけだ。私は世界をつくり出し、そこに住んでいた
--もはやそうすることはないのだ。
====================
質問者: 私は善と悪の問題をまず解決するべきではないでしょうか?
マハラジ: 人々は快いことを善と見なし、苦しいことを悪と見なすのだ。
質問者: ええ、私たち普通の人々にとってはそのとおりです。
しかし、あなたが統合されたレベルから見たときはどうでしょう?
あなたにとっては何が善で、何が悪なのでしょうか?
マハラジ: 苦しみを増長することが悪であり、それを取り除くことが善だ。
==================
質問者: 非常に悪い人でもあなたの恩寵を得るのでしょうか?
マハラジ: 私は誰も悪い人を知らない。
私はただ私自身を知っているだけだ。
私はいかなる聖者も罪人も知らない。
ただ生きる存在を見るだけだ。
私は恩寵を施したりはしない。
私には与えるものは何もないし、拒むものもない。
あなたたちは等しい量を既に持っているのだ。
ただあなたの豊かさに気づきなさい。
そしてそれらを充分利用するがいい。
私からの恩寵を必要とするかぎり、あなたは私の戸口でそれを乞うことになるのだ。
私があなたから恩寵を乞うことは決してない。
私たちは分離してなどいない。実在は共有のものだ。
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国内だけでは情報が限られるので海外にも目を向けています。
国内だけでは情報が限られるので海外にも目を向けています。
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