カルキのディクシャ WHO IS THAT?
インド聖者カルキバガヴァンとワンネスムーヴメント。
その知られざる実態に迫る。
ワンネス劇場の舞台裏で何が起こっていたのか!?
その他、悟り系の情報を紹介。玉石混交のスピリチュアル、玉にみせかけた石にはご用心。
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前回に続き、本からの引用です。こちらも玉石混交の精神世界において稀有な1冊です。エゴのトリックについても詳しく説き明かされている目覚めへの手引きといえる本です。
例えば1つの読みかたとして、「エゴ」という言葉を自分の名前や特定の教祖の名前などに入れ替えてみるのもいいですね。
OU(ワンネスユニヴァーシティ)であれば、2012年を指標に悟りの実現を予言していますし、わかりやすいですよね。
ビジェイ・クマール(カルキ)は「1月か2月に新しいプロセスをスタートしますので、数ヶ月以内に皆さん(信徒)は目覚めますよ」とか、「2035年に人類はこうなるでしょう」とか、その手の話をこれまでずっと繰り返してきたわけですから。でも、信徒にとってこうした現実は受け入れ難いことであるのもわかります。
以前に公開したサムソ・レター(海外でワンネスセンターを運営していたリーダー的人物が活動から離れた理由、見解を記したもの)なども同様の参考になるでしょう。
============
「今この瞬間」への旅
レナード・ジェイコブソン 著
今西礼子 訳
ナチュラルスピリット
トリックがつまった袋
エゴはあなたをマインドの過去と未来の世界に拘束することに、非常に熟練しています。
エゴはエゴの分離の世界の中にあなたを誘惑して、欺き、騙すというトリックがつまった袋を持っているのです・・・(中略)
その一方で、エゴの世界は想像する未来にもあります。エゴはとてもシンプルでありながらも、巧みなトリックを持って、首尾よくほとんどすべての人類を、決してやってくることはない未来の奴隷としたのです。
そのトリックが何であるか思いつきますか。
それは未来における達成という期待です。それが私達の内面に欲望と希望を生み出し、私達を未来に集中させて「今、この瞬間」から遠ざけるのです。
私達は皆、このエゴの詐欺に騙される子どものようです。このシンプルなトリックを見抜き、ただ「今、この瞬間」だけが、私達を満たすことができるということを認識するまで、私達は決して目覚めないでしょう。
未来における悟り
エゴはまた、将来には悟れるという期待を持たせて、私達をそそのかします。スピリチュアルな訓練を行う、瞑想する、スピリチュアルな本を読む、スピリチュアル・ティーチャー達を訪ねるならば、やがて目覚めるというのはあてにならない約束です。あなたが目覚めることのできる唯一の時は「今」なのです。
そして、よい知らせがあります。「今、この瞬間」はあなたのために常に繰り返し現れているということです。「今、この瞬間」は決してあなたを見捨てることはなく、いつもあなたにこの瞬間に存在する機会をもたらしているのです。
エゴは目覚めることはできない
あなたのエゴが悟ろうとすればするほど、あなたはより一層苦しむでしょう。なぜならば、エゴは達成することが不可能な何かを達成しようと試みるからです。
これはスピリチュアルな道を歩む多くの人たちに、よく起こる思い違いです。エゴは目覚めようとして懸命に努力します。エゴは毎日瞑想し、あらゆるスピリチュアルな訓練に従事し、儀式を行い、リトリートに参加し、多くのスピリチュアルな本を読み、異なった教師たちと時を過ごします。エゴは悟りを得ようと懸命に努力しますが、それは絶対に起こり得ません。
エゴは決してこの瞬間に存在することは出来ません。エゴは決して人生の真実に目覚めることは出来ません。エゴの世界はマインドの世界です。エゴは過去に基礎を置き、未来に突き出しています。エゴの生存そのものがまさに思考に依存しています。エゴの目覚めるための努力は、あなたをさらに未来の中に連れていき、さらに「今、この瞬間」から遠ざけるだけなのです・・・(後略)
エゴは悟りを求めている
(前略)・・・悟りは痛みと苦しみを逃れる唯一の方法か、究極の達成だとエゴは信じています。
エゴは悟りについての観念と概念を持っていますが、悟りが実際に何であるかは知りません。エゴは誰かの悟りの体験を読み、その体験をしてみたいと切望します。
エゴはあなたがスピリチュアルな本を読み、スピリチュアル・ティーチャーを訪れ、スピリチュアルな知識を得ることをとても幸せに思っています。エゴはあなたにスピリチュアルな修行に真剣に没頭して欲しいと願っています。エゴはスピリチュアルであると感じ、スピリチュアルなように見えるのが大好きです。エゴはスピリチュアルな探求をとても気に入っているのです・・・(後略)
最後の忠告
気を付けましょう! エゴは最終的にあなたを自由にさせる前に、最後の欺きを試みます。エゴは巧妙な詐欺師で、いとも簡単に目覚めた者のふりをします。エゴはこの瞬間に存在しているように見える方法と、あらゆる正しい言葉を知っているのです。気を付けなければ、あなたはエゴに騙されてしまうでしょう。
悟りを開いた、この瞬間に存在していると思ったら、あなたはエゴに騙されています。あなたは時間の世界の中に再び吸い込まれています。実在の目覚めた状態では、思考は存在しないのです・・・(後略)
魂の勘違い
数多くの生涯に渡って、魂自身を完璧にさせることができれば、ワンネスと永遠性に帰還すると魂は信じています。魂はその願望の結果が、未来にあるものと理解しています。将来いつかそのうちに目覚めるか、悟りを開けると、私達は信じているのです。
真の目覚めは、決して未来に起こり得ません。真の目覚めは、「今」というこの瞬間だけに起こります。あなたが完全にこの瞬間に存在するときはいつでも、あなたは目覚めています。あなたは悟っています。あなたはワンネスに帰還しています。それは未来には起こり得ません。「今」だけに起こるのです。
ある未来の生涯でのワンネスを夢見ているのがあなたの魂であっても、将来のあるときの悟りを夢見ているのがあなたであっても、その結果は同じです。あなたは「今、この瞬間」に近づかずに、真の目覚めの機会を逃しているのです。
誘惑
エゴは「今、この瞬間」からあなたを引き離そうと誘惑する、計り知れない能力を持っています。
エゴは未来における達成の期待を持たせて、あなたを誘惑します。過去の事柄の知識を駆使して、あなたを誘惑します。将来そのうちに悟るという約束をして、あなたをエゴの世界に誘惑することもできるのです。
神はどのようにして、エゴと競うことができるでしょうか。神の世界は「今、ここ」に限られています。過ぎ去ったことか、将来に起きるかも知れないことではなく、すでに「ここ」に在るものだけでしか、神はあなたを惹き付けることができません。
それでは、誰が「今、この瞬間」を選択するのでしょうか。誰がエゴの誘惑を退けることができるのでしょうか。それはごく僅かな祝福された人だけなのです。
例えば1つの読みかたとして、「エゴ」という言葉を自分の名前や特定の教祖の名前などに入れ替えてみるのもいいですね。
OU(ワンネスユニヴァーシティ)であれば、2012年を指標に悟りの実現を予言していますし、わかりやすいですよね。
ビジェイ・クマール(カルキ)は「1月か2月に新しいプロセスをスタートしますので、数ヶ月以内に皆さん(信徒)は目覚めますよ」とか、「2035年に人類はこうなるでしょう」とか、その手の話をこれまでずっと繰り返してきたわけですから。でも、信徒にとってこうした現実は受け入れ難いことであるのもわかります。
以前に公開したサムソ・レター(海外でワンネスセンターを運営していたリーダー的人物が活動から離れた理由、見解を記したもの)なども同様の参考になるでしょう。
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「今この瞬間」への旅
レナード・ジェイコブソン 著
今西礼子 訳
ナチュラルスピリット
トリックがつまった袋
エゴはあなたをマインドの過去と未来の世界に拘束することに、非常に熟練しています。
エゴはエゴの分離の世界の中にあなたを誘惑して、欺き、騙すというトリックがつまった袋を持っているのです・・・(中略)
その一方で、エゴの世界は想像する未来にもあります。エゴはとてもシンプルでありながらも、巧みなトリックを持って、首尾よくほとんどすべての人類を、決してやってくることはない未来の奴隷としたのです。
そのトリックが何であるか思いつきますか。
それは未来における達成という期待です。それが私達の内面に欲望と希望を生み出し、私達を未来に集中させて「今、この瞬間」から遠ざけるのです。
私達は皆、このエゴの詐欺に騙される子どものようです。このシンプルなトリックを見抜き、ただ「今、この瞬間」だけが、私達を満たすことができるということを認識するまで、私達は決して目覚めないでしょう。
未来における悟り
エゴはまた、将来には悟れるという期待を持たせて、私達をそそのかします。スピリチュアルな訓練を行う、瞑想する、スピリチュアルな本を読む、スピリチュアル・ティーチャー達を訪ねるならば、やがて目覚めるというのはあてにならない約束です。あなたが目覚めることのできる唯一の時は「今」なのです。
そして、よい知らせがあります。「今、この瞬間」はあなたのために常に繰り返し現れているということです。「今、この瞬間」は決してあなたを見捨てることはなく、いつもあなたにこの瞬間に存在する機会をもたらしているのです。
エゴは目覚めることはできない
あなたのエゴが悟ろうとすればするほど、あなたはより一層苦しむでしょう。なぜならば、エゴは達成することが不可能な何かを達成しようと試みるからです。
これはスピリチュアルな道を歩む多くの人たちに、よく起こる思い違いです。エゴは目覚めようとして懸命に努力します。エゴは毎日瞑想し、あらゆるスピリチュアルな訓練に従事し、儀式を行い、リトリートに参加し、多くのスピリチュアルな本を読み、異なった教師たちと時を過ごします。エゴは悟りを得ようと懸命に努力しますが、それは絶対に起こり得ません。
エゴは決してこの瞬間に存在することは出来ません。エゴは決して人生の真実に目覚めることは出来ません。エゴの世界はマインドの世界です。エゴは過去に基礎を置き、未来に突き出しています。エゴの生存そのものがまさに思考に依存しています。エゴの目覚めるための努力は、あなたをさらに未来の中に連れていき、さらに「今、この瞬間」から遠ざけるだけなのです・・・(後略)
エゴは悟りを求めている
(前略)・・・悟りは痛みと苦しみを逃れる唯一の方法か、究極の達成だとエゴは信じています。
エゴは悟りについての観念と概念を持っていますが、悟りが実際に何であるかは知りません。エゴは誰かの悟りの体験を読み、その体験をしてみたいと切望します。
エゴはあなたがスピリチュアルな本を読み、スピリチュアル・ティーチャーを訪れ、スピリチュアルな知識を得ることをとても幸せに思っています。エゴはあなたにスピリチュアルな修行に真剣に没頭して欲しいと願っています。エゴはスピリチュアルであると感じ、スピリチュアルなように見えるのが大好きです。エゴはスピリチュアルな探求をとても気に入っているのです・・・(後略)
最後の忠告
気を付けましょう! エゴは最終的にあなたを自由にさせる前に、最後の欺きを試みます。エゴは巧妙な詐欺師で、いとも簡単に目覚めた者のふりをします。エゴはこの瞬間に存在しているように見える方法と、あらゆる正しい言葉を知っているのです。気を付けなければ、あなたはエゴに騙されてしまうでしょう。
悟りを開いた、この瞬間に存在していると思ったら、あなたはエゴに騙されています。あなたは時間の世界の中に再び吸い込まれています。実在の目覚めた状態では、思考は存在しないのです・・・(後略)
魂の勘違い
数多くの生涯に渡って、魂自身を完璧にさせることができれば、ワンネスと永遠性に帰還すると魂は信じています。魂はその願望の結果が、未来にあるものと理解しています。将来いつかそのうちに目覚めるか、悟りを開けると、私達は信じているのです。
真の目覚めは、決して未来に起こり得ません。真の目覚めは、「今」というこの瞬間だけに起こります。あなたが完全にこの瞬間に存在するときはいつでも、あなたは目覚めています。あなたは悟っています。あなたはワンネスに帰還しています。それは未来には起こり得ません。「今」だけに起こるのです。
ある未来の生涯でのワンネスを夢見ているのがあなたの魂であっても、将来のあるときの悟りを夢見ているのがあなたであっても、その結果は同じです。あなたは「今、この瞬間」に近づかずに、真の目覚めの機会を逃しているのです。
誘惑
エゴは「今、この瞬間」からあなたを引き離そうと誘惑する、計り知れない能力を持っています。
エゴは未来における達成の期待を持たせて、あなたを誘惑します。過去の事柄の知識を駆使して、あなたを誘惑します。将来そのうちに悟るという約束をして、あなたをエゴの世界に誘惑することもできるのです。
神はどのようにして、エゴと競うことができるでしょうか。神の世界は「今、ここ」に限られています。過ぎ去ったことか、将来に起きるかも知れないことではなく、すでに「ここ」に在るものだけでしか、神はあなたを惹き付けることができません。
それでは、誰が「今、この瞬間」を選択するのでしょうか。誰がエゴの誘惑を退けることができるのでしょうか。それはごく僅かな祝福された人だけなのです。
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今回は那智氏の「悟り系で行こう」からの一部を抜粋紹介させていただきます。氏が言うところの精神世界の玉石混合でいえば玉といえるであろう稀有な1冊です。
ディクシャなど精神世界の甘い言葉に誘われ、罠に落ちた(そして抜けた)経験をお持ちの人であれば、しっくりくるものと思われます。私自身の経験からいっても、悟りビジネスに引っ掛かる要因には自分が無知であること、実際は悟りを求めているのではなく「私」が大きくなりたい、現実逃避であることがあげられます。
◎悟り、ワンネス=神秘体験、脳内麻薬による恍惚状態(麻薬による誘発を含む)
◎悟りのプロセス=自我肥大化過程(悟りとは真逆であり、プライドが高くなり、肩書きを増やす傾向あり)
◎恩寵=ニンジン効果
=========
「悟り系で行こう」
那智タケシ:著
明窓出版
P.99 第二章より抜粋
『 ・・・残念ながら、悟りに至る決まり切った道というものはないのです。
呼吸法をしようが、呪文を唱えようが、苦行をしようが、瞑想をしようが、それは悟りとは関係ありません。
悟りのプログラムがあるとしたら、ゴールにあるのは悟りではなく、「こうありたい自分」に過ぎないことでしょう。
もちろん、悟ったら終わりというものではありません。
悟りの認識を得た後にこそ、拡大し、深まる世界というものが確かにあります。
エゴの浄化による「空」の実現もまた然りです。
むしろ、悟った後にこそ、創造的な生のあり方が試されることでしょう。
しかしそれは、「悟り養成コース」でもって達成されるものではなく、山登りの道を歩くものでもなく、個々人の独自な運命の中にのみ開示されるものだと思います。
悟りは、決して定型化されるものではなく、その世界に入った後にこそ、個人の天才性という自由の中で成長してゆくものなのです。そこには決まり切った道などないのです。 』 後略
P.102~106 ★精神世界の危険性について
『 今、大手の書店に行けば「精神世界」なるコーナーがあるはずです。あるいは「スピリチュアル」という言葉で1つのジャンルになっているのかもしれません。そこにある書籍は、似非宗教的な神の言葉から、占いやオカルト、超能力、前世療法、チャネリング、UFO、ヒーリング等々、こうしたジャンルに興味のない人から見ると、「うさんくさい」の一言で済ましてしまえるような内容のタイトルがつけられた書籍が、ずらりと並んでいます(本著もその1つに違いありませんが)。
私は別段、チャネリングだとか、前世だとかが嘘であるとか、詐欺であるとか批判したいわけではありません。そのほとんどがガラクタのような代物であることは知っていますが、玉石混交という言葉もありますし、中には何らかの意味を持つものもあるのでしょう。実際、特殊な能力を持つ方もいらっしゃるようです。けれども、私が言いたいのは、チャネリングであれ、神からの言葉であれ、守護霊からのメッセージであれ、すべては「私」という厄介な中核を消滅させる作業なしには、「私」逃避、現実逃避の娯楽になりかねないということです。
自分より高次の存在からのメッセージを受け取る、ということは、結局のところ分裂の世界です。二元論です。世界から分離して真実を理解していない、小さな「私」に、より大きな存在、聖なる存在が「正しさ」を教えてくれるということです。仮にそのような大きな存在があったとしても、人がその大きなものと小さなものという構図に安住している限り、決して悟りの世界に入ることはできません。なぜなら、悟りとは「私」が幻想であり、「世界」そのものであることを知ることだからです。
もしも、自分がそのものであることに気づけば、未熟な自己に何か大事なことを教えてくれる偉大な何ものかは必要ないのです。
もちろん、人生のある時期において、人を救い、導くような神秘体験現象もあるのかもしれません、優れた教師も現れることでしょう。ただしそれは、いずれ乗り越えなくてはいけない存在なのです。
なぜなら、一人の人間よりも大きなものなど何もないからです。
一人の人間というのは、本質的な意味において世界そのものです。彼は、自分より大きなものを持つ必要はないし、持ち得ないのです。
なぜなら、あなたは「世界」なのですから。あなたを導く神聖な存在も、「私」を破壊した時、あなた自身となるのです。
中には、聖なるメッセージによって救われた、という人もいるでしょう。私は神のメッセージによって、幸福になった、あなたもこのメッセージを受け取りなさい、というわけです。しかし、こうした人々には一つの特徴があります。彼らは、どんなに幸福そうに微笑んでいても、その微笑みには厳しさがないのです。微笑みの裏側に、あるいは中心に、過保護にされた「私」が残っているのです。「私は神の言葉を聞いて(信じて)救われた」という人がインタビューを受けている写真をみたことがありますが、その微笑の何と甘たるいこと! 私は一目見て、「ああ、この人は自分(「私」)というものを殺していないな」と感じました。「私」というものを一度破壊した人は、決してこのような甘たるい、自己満足の微笑を浮かべません。
人は、「あなたはそのままでいいんだよ、救われているんだよ」という自分にとって都合の良い教えを好みます。しかし、「私」肯定のメッセージは、どんなに心地よいものであっても、人間というものを本質的に救うことはないのです(非常に残念なことですが)。むしろそのような誤ったメッセージは、「私」を大事に保存したまま、人に「救われた」という錯覚をもたらしてしまうことにおいて、邪悪なものでさえあると思います。
どんなに「世界平和」や「祈り」や「愛」を説いていたとしても、その中心に「私」がある限り、すべては「私」の自己満足で終わってしまうのです。
人は、他人の立派で美しいメッセージを信じる前に、自分自身の醜さを直視する勇気を持たなくてはならないのです。
また、こうした業界には、求道者と言われるような人々がいます。瞑想のセミナーに出かけたり、禁欲の修行をしたり、果てはインドにグル(精神的指導者)を求めて旅立ったり、たいへんな時間とお金をかけて、真実というものを探し求めています。
けれども、もしもその真実が「今」、「ここ」にあるとしたらどうでしょう?
彼らは「私」の外に真実を求め、インドまで聖人を求めて旅立つのかもしれませんが、そのようなことをすればするほど、「私」という、今、ここにある真実から遠ざかっているかもしれないのです。
悟りは、様々な本を読んだり、セミナーに出かけたり、聖人に会いに行ったりして得るものではありません。むしろそのような活動をすればするほど、真実を求める「私」が強く、大きくなり、取り返しのつかないまでに硬直化してしまうかもしれないのです。
というわけで「精神世界」なるものに入り込むことは、極めて危険な道なのです。私たちは「精神世界」に入り込むのではなく、「私」自身の中に入り込むべきです。それはインドに行くことよりもはるかに困難で、はるかに豊かな意味を持つ行為なのです。
真実は、他人の言葉や外国にあるのではなく、私たち自身の中にあるのです。』
ディクシャなど精神世界の甘い言葉に誘われ、罠に落ちた(そして抜けた)経験をお持ちの人であれば、しっくりくるものと思われます。私自身の経験からいっても、悟りビジネスに引っ掛かる要因には自分が無知であること、実際は悟りを求めているのではなく「私」が大きくなりたい、現実逃避であることがあげられます。
◎悟り、ワンネス=神秘体験、脳内麻薬による恍惚状態(麻薬による誘発を含む)
◎悟りのプロセス=自我肥大化過程(悟りとは真逆であり、プライドが高くなり、肩書きを増やす傾向あり)
◎恩寵=ニンジン効果
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「悟り系で行こう」
那智タケシ:著
明窓出版
P.99 第二章より抜粋
『 ・・・残念ながら、悟りに至る決まり切った道というものはないのです。
呼吸法をしようが、呪文を唱えようが、苦行をしようが、瞑想をしようが、それは悟りとは関係ありません。
悟りのプログラムがあるとしたら、ゴールにあるのは悟りではなく、「こうありたい自分」に過ぎないことでしょう。
もちろん、悟ったら終わりというものではありません。
悟りの認識を得た後にこそ、拡大し、深まる世界というものが確かにあります。
エゴの浄化による「空」の実現もまた然りです。
むしろ、悟った後にこそ、創造的な生のあり方が試されることでしょう。
しかしそれは、「悟り養成コース」でもって達成されるものではなく、山登りの道を歩くものでもなく、個々人の独自な運命の中にのみ開示されるものだと思います。
悟りは、決して定型化されるものではなく、その世界に入った後にこそ、個人の天才性という自由の中で成長してゆくものなのです。そこには決まり切った道などないのです。 』 後略
P.102~106 ★精神世界の危険性について
『 今、大手の書店に行けば「精神世界」なるコーナーがあるはずです。あるいは「スピリチュアル」という言葉で1つのジャンルになっているのかもしれません。そこにある書籍は、似非宗教的な神の言葉から、占いやオカルト、超能力、前世療法、チャネリング、UFO、ヒーリング等々、こうしたジャンルに興味のない人から見ると、「うさんくさい」の一言で済ましてしまえるような内容のタイトルがつけられた書籍が、ずらりと並んでいます(本著もその1つに違いありませんが)。
私は別段、チャネリングだとか、前世だとかが嘘であるとか、詐欺であるとか批判したいわけではありません。そのほとんどがガラクタのような代物であることは知っていますが、玉石混交という言葉もありますし、中には何らかの意味を持つものもあるのでしょう。実際、特殊な能力を持つ方もいらっしゃるようです。けれども、私が言いたいのは、チャネリングであれ、神からの言葉であれ、守護霊からのメッセージであれ、すべては「私」という厄介な中核を消滅させる作業なしには、「私」逃避、現実逃避の娯楽になりかねないということです。
自分より高次の存在からのメッセージを受け取る、ということは、結局のところ分裂の世界です。二元論です。世界から分離して真実を理解していない、小さな「私」に、より大きな存在、聖なる存在が「正しさ」を教えてくれるということです。仮にそのような大きな存在があったとしても、人がその大きなものと小さなものという構図に安住している限り、決して悟りの世界に入ることはできません。なぜなら、悟りとは「私」が幻想であり、「世界」そのものであることを知ることだからです。
もしも、自分がそのものであることに気づけば、未熟な自己に何か大事なことを教えてくれる偉大な何ものかは必要ないのです。
もちろん、人生のある時期において、人を救い、導くような神秘体験現象もあるのかもしれません、優れた教師も現れることでしょう。ただしそれは、いずれ乗り越えなくてはいけない存在なのです。
なぜなら、一人の人間よりも大きなものなど何もないからです。
一人の人間というのは、本質的な意味において世界そのものです。彼は、自分より大きなものを持つ必要はないし、持ち得ないのです。
なぜなら、あなたは「世界」なのですから。あなたを導く神聖な存在も、「私」を破壊した時、あなた自身となるのです。
中には、聖なるメッセージによって救われた、という人もいるでしょう。私は神のメッセージによって、幸福になった、あなたもこのメッセージを受け取りなさい、というわけです。しかし、こうした人々には一つの特徴があります。彼らは、どんなに幸福そうに微笑んでいても、その微笑みには厳しさがないのです。微笑みの裏側に、あるいは中心に、過保護にされた「私」が残っているのです。「私は神の言葉を聞いて(信じて)救われた」という人がインタビューを受けている写真をみたことがありますが、その微笑の何と甘たるいこと! 私は一目見て、「ああ、この人は自分(「私」)というものを殺していないな」と感じました。「私」というものを一度破壊した人は、決してこのような甘たるい、自己満足の微笑を浮かべません。
人は、「あなたはそのままでいいんだよ、救われているんだよ」という自分にとって都合の良い教えを好みます。しかし、「私」肯定のメッセージは、どんなに心地よいものであっても、人間というものを本質的に救うことはないのです(非常に残念なことですが)。むしろそのような誤ったメッセージは、「私」を大事に保存したまま、人に「救われた」という錯覚をもたらしてしまうことにおいて、邪悪なものでさえあると思います。
どんなに「世界平和」や「祈り」や「愛」を説いていたとしても、その中心に「私」がある限り、すべては「私」の自己満足で終わってしまうのです。
人は、他人の立派で美しいメッセージを信じる前に、自分自身の醜さを直視する勇気を持たなくてはならないのです。
また、こうした業界には、求道者と言われるような人々がいます。瞑想のセミナーに出かけたり、禁欲の修行をしたり、果てはインドにグル(精神的指導者)を求めて旅立ったり、たいへんな時間とお金をかけて、真実というものを探し求めています。
けれども、もしもその真実が「今」、「ここ」にあるとしたらどうでしょう?
彼らは「私」の外に真実を求め、インドまで聖人を求めて旅立つのかもしれませんが、そのようなことをすればするほど、「私」という、今、ここにある真実から遠ざかっているかもしれないのです。
悟りは、様々な本を読んだり、セミナーに出かけたり、聖人に会いに行ったりして得るものではありません。むしろそのような活動をすればするほど、真実を求める「私」が強く、大きくなり、取り返しのつかないまでに硬直化してしまうかもしれないのです。
というわけで「精神世界」なるものに入り込むことは、極めて危険な道なのです。私たちは「精神世界」に入り込むのではなく、「私」自身の中に入り込むべきです。それはインドに行くことよりもはるかに困難で、はるかに豊かな意味を持つ行為なのです。
真実は、他人の言葉や外国にあるのではなく、私たち自身の中にあるのです。』
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精神世界(スピリチュアル)には数多くのトラップが存在しています。私も懲りずに何度もひっかかりました。安易に鵜呑みにせず、自分自身で調べる、考える、見極めることが大切なんだと思います。経験してみないことにはわからないこともありますが、情報を知ることで罠を回避できることも十分にあると考えられます。
国内だけでは情報が限られるので海外にも目を向けています。
国内だけでは情報が限られるので海外にも目を向けています。
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